暁星山岳部のあゆみ 年代
●2001年3月 吉野興一
1973年の本合宿といえば、暁星山岳部員数最低記録といってよい。前年まで大勢だった中学生が次々に部をやめていき、結局は本合宿参加者は高校2年生の伊藤さんと高校1年の福井、吉野だけになった。当時の顧問教諭は平敷先生である。それでも奥秩父縦走の準備が進められ、中央線茅野駅から合宿ははじまった。初日はラジウム鉱泉から入り富士見平泊まり。
教師を入れてたった4人ではあったが、布地製のテント一式に4泊分の食料と石油など、キスリングの重量はみな30キロを越えていた。しかも、なのである。某OB氏が出発の間際に差し入れをもってきた。ものは「すいか」である。どういうつもりの西瓜だったのか、ほとんどイヤミとしか思えない代物ではあっても、「尊敬する」OBの差し入れである。リーダーの伊藤さんはありがたく押しいただき、私に向かってこう言ったのである。
「吉野、グランドシートの装備だったよな。この西瓜、グランドシートに巻いて、割れないように持っていって」純情だった私はとくに反論することもなく、金属製の椀で西瓜をうまいこと包み込むようにして新聞紙でくるみ、キスリング本体の最上部に乗せてパッキングした。背負うと、西瓜の分というよりは不条理に持たされた荷物の重さの分、私にはとても重いザックに感じられた。2泊目の大弛小屋までの行程は晴天にめぐまれ、金峰の山頂からは四囲の中部山岳地帯のめぼしい山峰をほんとんど望むことができた。感激であった。3日目、甲武信小屋をめざしたが、途中の東梓の手前の尾根路でのことである。縦走路をはずして東側の小尾根の踏み跡に迷い込んでしまった。気がついたときには高度差二百メートル以上ほども谷筋に下っており、しかも、セオリーに反して道なき道を直登してやっとのおもいでもとの尾根に戻るのになんと3時間も費やしている。皆、あごをだした。バテバテで甲武信小屋に到着した。テントを張り、水くみもすませ、夕食の準備も終えた。いよいよ、である。先生を入れて4名で喧嘩が起きるはずもなく、正確に四等分にカットされた西瓜が皆の前に配られたとき、伊藤さんがこう言った。「この西瓜、小さいな・・・」三日間、割らないように細心の注意をしながら持ち上げた西瓜である。炎天下の尾根道を運びあげた西瓜である。これを持つように言ったのはあんたじゃありませんか。たとえ小さかろうと、俺には宝物のような西瓜なんすよ。黙ってうれしそうに食って下さいよ…。
私がそんなことを考えているとき、すでに伊藤・福井の両氏は西瓜を食べ終えようとしているではないか。いそぎパクついたその味は、わが生涯最高の西瓜なのであった。
翌日、雁坂峠を越えて西沢側に無事に下山。山の天候の良さとともに西瓜の味を思い出す、妙に味わいのある思い出深い山行ではあった。
aLT
CL
SL
平敷哲先生
伊藤公仁
福井篤
吉野興一

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