暁星山岳部のあゆみ 年代
●ルート
8月1日 上野発
8月2日 小国===長者原---事故地点---長者原===小国---大津屋旅館
8月3日 帰京(予定は8日まで)
●1974年夏山合宿追想記 2001年2月26日 福井篤
早いものであの合宿から27年の歳月がたとうとしている。1974年夏は梅雨空け後も天候が安定せず雨模様の日が続いた。出発の8月1日も雨が激しく、東北地方の一部では豪雨になっていたと思う。その影響を受けて上野発の東北地方行きの列車ダイヤはかなり乱れていた。そんな何か重苦しい様相の中、我々、平敷先生も含め5名は上野駅を後にした。翌日、小国に到着したときは雨も上がり一転快晴。一同乗合バスに乗り込み長者原まで行く。長者原で水を補給し出発する。林道をしばらく歩くと「この先通行不能、わき道を」との標識があった。我々はそれに従いわき道(通常の登山道)を進む。わき道を歩き始め数時間後に大きな雪渓が現れる。標高はまだ低いのに、雪渓が残っていることに対し、一同感動と驚きを憶える。この雪渓をトラバースした後小休止をとる。わき道の左(沢)側は4m近くガレており雪渓も残っていた。わき道上には雪はなかった。いつものように水筒から水を飲んだりボーッとして疲れを癒した。その時である。眼の前の松田がふと立ちあがったかと思うと、わき道の左(沢)側のがけへ転落してしまった。いったい何が起こったのか。しかし現にがけ下には松田が臥している。とにかく何とかしなければ。大きく迂回し松田の所に行く。意識はしっかりしているが額から出血している。幸い里から離れていない。直ちに吉野と大堀に長者原まで走ってもらう。現地には福井と平敷先生が残り応急手当にあたる。何時間か待つと地元の人が別ルート(途中で迂回した林道)から救助に来てくれた。松田を背負いジープに乗せ、長者原さらに小国までもどった。病院へ担ぎ込まれた松田は幸い大きな怪我ではなく、脳の異常もなかった。翌日、我々3名は松田を残し帰京した。
上記のことが1974年夏山合宿の概要です。時間が経過しているので一部間違いがあるかもしれませんがそれはお許し下さい。このような形で事故が起こったことに対し、リーダーとして至らぬ点が多々あったと思います。もう少し先であるいは手前で小休止をとっていれば、最悪の転落ということはなかったと思います。それと標高が低いところでも雪がかなり残っている情報を事前に入手し、パーテイー全員に衆知させておくことも必要であったと思います。我々が事故を起こした日前後に、いくつかのパーテイーがこの飯豊連峰で滑落事故を起こしていました。大怪我でなかったことがせめてもの救いでした。今は立場が変わり、大学の実習船で学生とともに頻繁に海洋調査を行っています。当時の平敷先生の心中がよくわかるようになりました。
LT
CL
SL
平敷哲先生
福井篤
吉野興一
松田弘之
大堀雅之

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