暁星山岳部のあゆみ 年代
写真





OB
特別参加
松井総治
湯川保郎
近藤英雄
伊庭三郎
近藤等
麻生武治
ゾフ氏
(ドイツ大使館員)
丸池にて(左より)松井・湯川・近藤・麻生・ゾフ氏・伊庭
●一枚の記念写真からの想い出 2001年2月 松井統治
私のスキーの歴史は1929年(昭和4年)、暁星小学校1年A組に入学した冬に始まる。同級生で私の家と「電車通り」を隔てた永田町の近藤英雄君こと(ひーちゃん)に誘われ、お父様の近藤廉治氏から奥日光に開校されるアルベルグ・スキー学校と、それに参加されるお友達の話を聴いたときに、私のスキーの第一歩が始まった。その中に暁星の先輩でもあり、廉治氏のクラスメイトでもあった伊庭勝弥氏ご夫妻も同行されていた。近藤、伊庭先輩お二人のお友達も大勢いらっしゃって楽しかった。昼間はスキーで夢中になっていても、夜、床に入ると寂しくなって、しくしく泣いた時に、伊庭のおばさまが優しく側に居てくだっさったのも、忘れられない思い出である。このアルベルグ・スキー学校の成果は、ひーちゃんと共に上級組に編入されたことが自信となり、ますますスキーの道にのめり込んで行った訳である。暁星在学中、スポーツなら何でもだったが、特に蹴球部で先輩方に引っ張られ練習で足腰を鍛えられた。それがスキー上達に役立った。冬になるとホームグランドも奥日光、岩原から志賀高原へと移り、丸池小屋が定宿となった。そのころは上林から荷物もスキーも己の肩と足だけが頼りで、馬橇は女子供のものだった。ましてゲレンデにはロープもリフトもない志賀高原スキー場だった。丸池小屋の次郎松爺さん一家とも親しくなり、時には炭俵を背に荷物運びも手伝った。そんなことが格好より、転ばないスキーを覚え、ゲレンデスキーよりサブリックに弁当を入れシールを腰に巻いて、発甫・熊の湯に足をのばし高天原、横手のノゾキ辺りまで一日行程の山スキーを楽しんだ。その頃、近藤等先輩1939年(昭和14年)卒、伊庭三郎(同級生で勝弥氏の甥)、戦死した湯川保郎君(同級生)と共に麻生武治大先輩1917年(大正5年)卒、ドイツ大使館のゾフさんに朝日山で新雪の中を回転、滑降するテクニックも教えて頂いた。そして雪粉を巻き上げ豪快に滑るお二人の姿が私の脳裏に焼き付いている。また長野電鉄小屋の美しいお嬢さんの残映も残っている。そして暁星山岳部が長谷川誠一先生のご指導を受けて誕生し、白馬、黒部、大菩薩などなど、大勢の先輩、学友と山歩きを楽しませて頂いた事も有り難い事だ。戦後、長島先輩(記憶が正しければ)がこの志賀高原での写真の事を麻生先輩に話され、それがきっかけで、戦前から経営していた高円寺にあった私の店「成吉思荘」に来られた時、九十才のご高齢も感じさせず、ラ・マルセイエーズを元気に歌われたのも良き思い出である。伊庭勝弥さん、麻生武治さん、近藤廉治さん、英雄君、伊庭三郎君そして近藤等さん、なにか暁星という縦糸とスキーや山の横糸が織り成す縁の所産と言えば良いのだろうか。また最近になって、暁星山岳部OB会で、お目にかかった中村泰徳さんが中学生の頃、私の店のあった高円寺に住まわれており、七つボタンの制服で通りかかった時、懐かしく「このおじさんも、昔、暁星に行っていたんだよ」と声を掛けたのが、中村泰徳さんと聴いて(こんな不思議な事があるのか)と信じられなかった。長谷川誠一先生の礎石の上につくられた暁星山岳部は、一世紀も前から見えない柱がたっていたように思えてならない。今ここに改めて暁星山岳部に敬意の念を表さずにいられない。広島で原爆に飛ばされても、今なお、元気で居られる事も感謝、感謝。暁星山岳部の皆さん、有難うございます。
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長谷川誠一先生
加藤昇一郎
近藤稔
近藤等
大倉雄二
他5名
淺川氏
徳沢園にて(後列左より)近藤等・淺川氏・近藤稔
     (前列左より)加藤昇一郎・長谷川先生
●ルート
7月18日 新宿―松本 7月19日 ―有明―中房 7月20日 ―燕 7月21日 ―槍ケ岳 7月22日 ―徳沢―上高地 7月23日 ―新宿

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