暁星山岳部のあゆみ 年代
●暁星山岳部の歴史 2001年3月15日 中村泰徳
OB会発足に当たり、最初に関心を持ったのが暁星山岳部の歴史でした。たまたま、同窓会誌「暁星」平成5年度号に、「戦前の暁星山岳部史」と題して、佐藤文夫氏1942年(昭和17年)卒が記録を残されていたので、連絡を取らさせて頂きました。以下原文の通り。
「私達の時代は、その幕引きをしたらしいのですが、具体的事実は何も無い。おりしも中国大陸での戦火は拡大、太平洋は波高し…の時代で、時局がらと言う事で、自然消滅みたいな事に成ってしまいました。部長は長谷川誠一先生、というよりは(アンパン)として全校的に親しまれた、国語担当の先生でした。年に四、五回近郊の山々を日帰りで歩いたり、夏休みには、高学年は北アルプス、1-3年は奥秩父、上越、日光周辺を4-5日のコースで…というのがその概要です。それでも四年生になった時には、前述の次第で山岳部としての行動が出来ず、有志として長谷川先生をリーダーに、大滝山・常念岳・燕とアルプス銀座の縦走をしたのが最後となりました。部長であった長谷川先生は、健康で長寿をたもたれましたが、今年1994年(平成6年)5月15日に101才の高齢でお亡くなりに成りましたので、その面影を偲びつつ、筆を取らさせて頂きました」
部歴編纂に当たり、1945年(昭和20年)以前の部を担当するように言われ、調べ始めたのが、昨年 平成12年の三月。近藤等氏1921年(大正10年)卒を代々木上原のご自宅に訪ねたのが最初でした。
一ヶ月ほど前に手紙で取材を申し込んだ所、快く応じて下さいました。代々木上原の駅から約5分ほどの閑静な住宅街だが、ご多分に漏れず分譲のマンションが立ち並びはじめ、昔からのお屋敷は影を潜め始めています。お住まいは文化人らしくモダンなコンクリート打ちっぱなし二階建。建物までの小さなお庭には花が植えられ、落ち着きの有る上品なお住まいでした。奥様とお二人の生活で、海外生活の長いご家庭を感じさせる、暖かいおもてなしをうけました。英国風のミルクテイと美味しいアップルパイ、そして果汁のジェリーをご馳走になりました。過去に一度だけお目にかかった事がありますが、初対面同様。いかにも旧き良き時代の暁星ボーイらしく、同窓の後輩として、心を許して、お話をして頂けました。
その後、近藤等氏の従弟で、近藤稔氏1939年(昭和14年)卒鎌倉在住より貴重な御手紙を頂き情報を増やさせていただきました。
何よりも一番有り難かったのは、佐藤文夫氏の紹介で、長谷川誠一先生のご令嬢、さざれ氏から借用できた、長谷川先生の記録手帳でした。これにより1936年(昭和11年)から1940年(昭和15年)までの部員と山行の概略を知ることが出来ました。
このほか、岩城譲太郎氏1937年(昭和12年)卒には日本橋三越前の日本橋クラブにて、松井総治氏1940年(昭和15年)卒には中野のご自宅にて、それぞれ貴重なお話を聴くことが出来ました。いずれの先輩方も、近藤等氏同様、暁星ボーイとして年齢の差を感じさせず、暖かく協力していただけました。
色々と前書きが多くなってしましましたが、調査の原点としたのが、1954年(昭和29年)7月6日 当時の暁星山岳会と暁峯岳友会(1947年昭和22年…1976年昭和51年頃まで活動した有志によるOB会)が主催して、戦前のOBにお集まり頂いた懇談会の出席者達です。僕もこの会には出席致しました。最年長者が伊庭勝弥氏1909(明治41年)卒・藤島敏男氏1914年(大正2年)卒・船田三郎氏・麻生武治氏1917年(大正5年)卒・初見一雄氏1927年(昭和2年)卒・近藤等氏1939年(昭和14年)卒・小塚修氏1945年(昭和20年)卒・福住修治氏1947年(昭和22年)卒他学生が12名、合計20名でした。こうしたそうそうたる山の名士達は、同じ暁星の卒業生と言うだけで、集まって下さったのでしょうか? 声を掛けたのは庄司保氏1950年(昭和25年)卒故人で、どのようは方法で連絡を取ったかは不明です。船田・麻生氏は同学年で分かるとしても、年齢的にもかなり差の有る先輩達です。その時の会の雰囲気は、かなりくだけた先輩・後輩といった雰囲気で、どう考えても既に大正の頃より、暁星山岳部はあったと判断しています。しかしながら、出席した8名の先輩の内、近藤・小塚氏を除いては、皆亡くなられ話を聴くことは出来ません。
岳人辞典(東京新聞出版局)船田三郎氏の部分で「1914年(大正3年)船田氏は暁星中学に学友(多分麻生氏等)と暁星山岳部を創設した」と記録しています。一方 長谷川誠一先生(通称アンパン)は、その回顧録で「1936年(昭和11年)岩城謙太郎氏1937年(昭和12年)卒の発案で、長江幹事の許可を得て、暁星山岳部を組織、自分が部長に選ばれた」と記録しています。岩城謙太郎氏、近藤等氏にお会いして確認しましたが、自分達の前には山岳部は無かったようだ、とあまり明確ではありません。
その後取材を続けたところ、一枚の記念写真が出てきました。場所は志賀高原のスキー場、写っているのが松井統治氏1940年(昭和15年)卒、同級生で山岳部にいた伊庭三郎氏(神戸在住でご健在)同じく近藤英雄氏、麻生武治氏1917年(大正5年)卒、ドイツ大使館員ゾフ氏。松井氏の記憶では、写真には一緒ではないが近藤等氏もいた、との事。
伊庭三郎氏は伊庭勝弥氏の甥ごさん。伊庭勝弥氏1909年(明治44年)卒の同級生が近藤廉治氏で息子さんが近藤英雄氏。
ちなみに近藤廉治氏のお父様、近藤廉平氏は日本郵船の創業者。伊庭勝弥氏は住友財閥の番頭。麻生武治氏は九州の麻生財閥の一族。なにやら明治、大正の上流家庭の交流が見えるような気がいたします。当時皆さんは永田町界隈の大きなお屋敷にお住まいになられていて、大勢の若者達が出入りをしていた様子です。松井氏は小学校1年生の時に近藤廉治氏に薦められ、日光で開校されたアルベルトスキー学校に入校したのが、山と関りを持った初めだそうです。その時には近藤廉治夫妻、息子の英雄氏、伊庭氏など暁星に関係のある人達が大勢スキー学校に参加したようです。
以上を総合して推察するに、暁星山岳部の原点は、伊庭勝弥氏、近藤廉治氏1909年(明治41年)卒に有るように思います。大変残念ながら、今回は1937年 昭和12年以前の記録は確認できませんでした。しかしながら、船田三郎、麻生武治、藤島敏男、初見一雄氏などは、いずれも著名な登山家で、多くの山岳著書を書かれており、何らかの暁星時代の記録が残っていると、確信しています。その一例として、「岩と雪」通巻16号 昭和44年11月25日発刊 船田三郎著「近代アルピニズムへの道」の一部をご紹介して、今回のまとめと致します。
岩山登攀より
「……大正7年7月(船田氏はすでに暁星は卒業、早稲田の大学生と推定する)中学(暁星)の下級生四名を誘って、前年すでに長次郎雪渓から登ったことのある剣岳を、早月川白萩谷から入り、赤元山からの山稜を大窓の頭、小窓の頭、剣頂上、別山へと岩稜縦走したのも、子供心に味をしめた岩壁の魅力の誘いと思っている。
この時は小窓の頭の幕営から登って剣岳山頂で日が暮れ、頂上直下の巨岩の陰に入って一夜を明かした。翌日、剣から別山頂上に下りて来た時、偶然にも同級生の麻生武治(暁星・早稲田)中川嘉一郎(暁星・大学は不明)君が、これから剣に行くのだといって、天幕を張っていた。
後日、夏休みが終わり九月に登校した日、両君から聞いたことであるが、麻生、中川両君が別山に幕営していたところに、後から慶大山岳部の大先輩二名が案内者数名と剣岳背稜縦走の一番乗りを志してやって来た。私達の中学生隊が、しかも案内人なしにお先に、剣山稜の完全縦走の話をしたところ、大先輩たちは私達の初縦走を否定して、信じなかったという事であった。案内者も無しに、しかも中学三年生を混じえての連中に、剣の岩稜の完全縦走など出来るはずが無い、と主張したそうである。……」

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