暁星山岳部のあゆみ
藤本宰智男先生の想い出 2001年3月26日 中村泰徳
藤本宰智男先生
藤本先生のお通夜は八王子市元横町の斎場でした。1999年(平成11年)11月4日の肌寒い夜でした。ご一緒したのは、猪野一夫氏 1950年卒、田辺正夫氏 雨宮透氏 1951年卒、山には関係が無いが先輩の成田氏、それに私。たぶん合掌した時の思いは皆同じ「先生のお元気なうちに、一言お礼を言いたかった……」
暁星高校の数学の教諭として、何年間奉職されたかは定かではないが、たぶん1947年(昭和22年)頃から、15年間ほどだろうか。始めてお目に掛かったのは、1950年(昭和26年)の春、高校1年C組の担任の先生としてでした。担当は数学、色白で細身、優しく丁寧な言葉使い。ご一緒した山行は記憶では三回、良く記憶しているのが、1956年(昭和31年)9月 当時活動していた暁峯岳友会と暁星山岳部の合同懇親山行で、大菩薩峠に行った時。当時の先生は三十代、参加者の大半は高校生と中学生22名、半世紀前の事だった。
どうゆう経緯で当時のハイキングクラブ・山岳同好会・暁星山岳会の責任者を藤本先生が引き受けられたかは、今となっては分からない。学校としては、危険が伴う生徒達の山行、出来れば禁止をしたいが、それも出来ず、かといって放置も出来ず。そんな中で、藤本先生が学校と生徒とのパイプ役を引き受けてくださったのでしょう。見返りの無い、そして責任だけが重い、そんな役割を引き受けてくださったのです。ほとんど山には同行しなかった先生だったが、山行計画の報告だけは、必ず提出させ、一言「無理はせず、危険なことは決してしないよう」とおっしゃった。たぶん先生の思いは、駄目といっても、隠れても行く生徒たち、それならば少しでも危険の無いよう、自分が責任を取ってと、私達に対する、大きな愛情であったと確信するのです。
その後、学校から正式な運動部として認知され、森淳寿先生、松本光男先生をはじめとするたくさんの山好きの生徒たちを理解する先生方が、藤本先生同様の思いで、部長として重い責任を背負って下さいました。藤本先生を含め、こうした先生方の暖かい理解が、現在の暁星山岳部の存在につながっています。部歴編纂に当たり、あらためてお世話頂いた先生方の、厚い愛情を感じます。
藤本先生、どうも有り難う御座いました。

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