暁星山岳部のあゆみ
長谷川誠一先生回顧録抜粋 1978年 長谷川誠一(通称アンパン)
長谷川誠一先生(右)
1937年3月の卒業生 伊達純は、東芸大の音楽科を出たピアニスト。東京芸術大学教授となった。穂本久は立大を出た。新宿の武蔵野映画劇場の支配人。ある日、訪ねて映画を観せてもらった事がある。もう久しく会ってない。
岩城謙太郎は、早大理工科を出た技術家。今は祖父の家業の「イワキ」の社長。岩城については忘れられない回想がある。暁星に山岳部が出来たのは、彼の発案によるものだ。
長江幹事の許可をいただいて「暁星山岳部」を組織し、わたしが山岳部長に選ばれた。
暁星山岳部としての第一回の登山は、日本北アルプスの白馬岳への登高で、1936年(昭和11年)7月17日-20日のこと。参加者は、五年生の岩城謙太郎、大倉雄二、鬼頭哲人、穂本繁久、四年生の中山利之、鈴木達夫、井上公資。それに長谷川部長。ほかにガイドとして山案内人浅川百合次の全員九名。新宿を発った第一日は麓の村の四ッ谷泊まり。ここで浅川さんと合流。二日目は大雪渓を登り、お花畑を見て、白馬頂上小屋泊まり。三日目に頂上を下って白馬温泉に泊まり。四日目は温泉から下山して四ッ谷、大町を経て松本経由、全員無事新宿着、解散。一人あての費用が十六円三十銭で済んだという時代。翌年には最高峰の槍ヶ岳へ登った。
その後、毎年、夏季休暇に、四、五年生は北アルプスへ。三年生以下は近県の山野へ、一、二泊で出かけた。なお、部員の希望で、毎月一回、日帰りのハイキングを楽しんだ。
それは、1942年3月に私が「暁星」を退職するまで続いた。いま、ひそかに誇りとしていることは、この六年間の山岳部の行事中、一度も事故が起こらなかったことだ。参加者が健康で、注意深い団体行動を取っていられたからでもある。
数江譲治は早大を優秀で出て、早稲田大学の教授になったが、その後会っていない。
百瀬渓渡(モモセワタル)とは親しかったが、卒業後の事は知らない。どうしているだろう。
名簿にも何の記載もない。村上七郎は東大法科を出て、フジテレビに勤めている。
名越正八の名はよく覚えているが、会ったことがない。慶大を出て名越株式会社に勤めているという。野村芳太郎は、映画監督野村芳亭の息子。慶大文科出で、松竹に入って映画の方を担当。いつの間にか父のように、名監督と呼ばれるようになったが、会う機会がないのは残念。その名映画を見たいと思っている。
大倉雄二は、慶大文科を出て文芸春秋社に入り、編集・出版総務部にいたが、いまは文春を辞めて、大倉集古館に勤務中。昔は山友達でもあったし、いまも親しくしている。足の負傷で、長く療養生活にあったが、いまはもう自家用車を運転して、どこへでも出かけている。その車で去年(1979年)この大沢の家を訪ねてくれた。物故者三十三名のなかに、梅原成四と鬼頭哲人と三輪哲朗がいる。梅原は高名な洋画家梅原龍三郎の息子。東大を出て、その教養学部の教授をしてたのに、惜しいことをした。
鬼頭は白馬岳へも一緒に行った人。慶大文科を出て、フランス文学者となり、母校の講師でもあった。フランス演劇の戯曲を翻訳して上演されたのもあった、というのに、一つも観ずにしまったのは惜しい。

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