暁星山岳部のあゆみ
暁星時代の山行 「岩と雪」第16号 1969年11月25日発行より 船田三郎
私にとって山登りは宿命であった。私の父が明治38年中国の黄河を遡り蒙古から新疆省に入り、天山山脈、さらにヒマラヤ山脈を越えてインド・カシミールのスリナガルへの旅を計画準備し、いよいよその出発直前になって、同行予定者であった地質学専攻の学徒が、家事の都合で出発ができなくなってしまった。そんな事で父の数年に亘る準備や研究を整えてのヒマラヤ行が挫折し、欝々とした胸中を他の心境に置き換えようとして、当時、東海道本線が酒匂川に沿うて足柄山脈を越える麓の山北駅から程遠くない北足柄村平山にある洒水滝の下に山荘を建て、暫らく隠籠生活に入った。私には小学校1年生の時であった。
    (中略)
そんな所で明け暮れする私の日常生活は、いくつもの小さい滝が連続する谷川を飛び回り、深潭で泳ぎ、時には滝落口の上に登り滝を覗き込むこともあった。それには谷はどちらかの山を遠く高回りして行かねばならなかった。山路は山稜についているので、高く登るにつれ富士山の巨きな姿が立ち塞がり、北に丹沢山塊が蟠踞して先ず視界に飛び込んで来るのであった。子供心に私の憧れはその富士山に、また丹沢山へ登ることまで拡がって行った。
    (中略)
私が小学校2年生の時、父の紹介で、私の母校暁星小、中学校のフランス人教師が山荘の近くに山の家を建て、30人位が交代で、夏の2カ月の休暇をそこで過ごしていた。
ほとんど毎日の午後私も連立って山歩きをするのを日課にしていた。その時は学校のフランス人教師たちと同じく靴穿きであったので、この習慣が後年の登山技術に、殊に雪山の時に大変役立つことになった。 中学生の頃から山歩きにはサッカーに使う靴底に堅い疣のあるものに換え、大正8年頃からトリコニー鋲靴を穿くようになった。いずれにしても私の小中学生ごろの穿物が日本登山の穿物では先端を行ったことになった。登山綱を確保用に使って急坂を上下したのは、小学4、5年生の頃(明治44年)の記憶がある。これもフランス人教師と一緒に洒水滝口を覗きに行った時のことで、ギャバルダ先生が本国のモンブランのあるオート・サボア県出身でフランス山岳兵のときに習得した綱確保法を私に教えて下さった。登山綱は12.3粍の現行のものであった。当時の日本では、麻の細引を携行するのを常識としていたが、細引を用いての登山術についてはなんら具体的な説明は見当たらなかった。
    (中略)
私は中学生になったばかりの時単独行か二人連れの登山を前提としたので、2メートル余の青竹の登山杖を支柱とした四角錐の軽いものを採用して注文した。天幕が出来上がった時は嬉しくて耐えられず、早速、同級生の内田魯庵さんの長男巌君を誘って足柄峠のはずれの矢倉岳に登り、山頂に張って一夜を天幕内で過し、至極く満悦したものであった。
    (中略)
雪山登山の第一歩は明治45年12月末、中学生になったばかりの年の暮、同級生中川嘉一郎君が大磯の別荘から馳せ参じ私の山荘から西丹沢へ出発した。丹沢山の玄倉川上流に入るのには、前山の茅の茂る道は雪が来て歩きやすくなっているものと予想して、夏道とは違った、山北から皆瀬川を遡り、山神峠を越して玄倉谷上流へ下る近道を選んだ。防寒具等で重くなった荷物を背負って、既に雪の積もった峠を下りて諸士平にやっとの思いで着いた時は暮れ方であった。

丹沢山中は想像以上に寒かった。雪を踏み分け箒杉沢から丹沢山頂を往復し、翌日下山して正月の雑煮を家族一同で祝うことができた。二回目の雪山登山は中学校3年生で(大正3年11月末)甲斐駒ガ岳を独りで登ったことであった。新宿駅から夜行列車で翌朝中央線日野春駅下車、釜無川を渡り宿場、台ガ原まで一気に走り続けた。この時の防寒具としては学生マントと厚い靴下だけであったので、リュックサックは軽かった。穿物はいつものとおりの編上靴で、まだ日本では靴穿の登山者はいなかった。駒ガ岳の前山、黒戸山にはもう雪が来ていて、長い長い黒戸山稜であったが、それ程遅くはならず3時頃には無人の七丈小屋に着いた。夕方は晴れた空に、日没に近い太陽の壮麗な光箭が氷雪の駒ガ岳の姿を恐ろしいほど冷厳に感じさせた。小屋では凍りつく寒さであったが、フランスパンとローストビーフで食事を済ました。私の山登りのパンを主体とした食事は、母校がフランス人の経営であり、学校給食は、主としてパン食であったので私は馴れていた。学校の遠足などの給食弁当もフランスパンとローストビーフやハム、ベーコンに果物であった。2、3日の山登りにはコンデンスミルクでも持っていけば、その都度、炊事をしなくても私には贅沢な食事であった。これは単独か、または地元人夫を連れない雪山登山には、担荷の軽い大変な利点になった。
その後、私の大学時代の山岳部連中に口の悪い仲間がいて、舟田と山へ行くのは良いが、三度々々パンを噛って米粒が喉を通らないのでは殺されてしまうという者さえいた時代もあった。
    (中略)
三度目の雪山登山はその翌年の4月末、雪の北岳を、これもまた独りで挑んだ。中央線龍王駅から御勅使川に沿って夜叉神峠を越え野呂川谷へ下り、鮎差小屋を根拠地として、対岸を少し上流に上った荒川から北岳往復を計画した。鮎差小屋に泊まった初夜は伐材人夫も登っておらず無人であった。翌朝早くからすぐ前の野呂川の雪融けの水を集めた冷たい急流を徒渉して対岸に渡り、すぐ近くの荒川合流点に出るタツガビンの氷結した岩壁を、河床から高回りして横切って行った。ふとしたはずみで氷壁に足を滑らし、手に掴むものもなく転落した。転落しながらも瞼のうちに両親の幻を瞬間反射的に見たのが最後で失神したのであった。どのくらいの時間が経過したか覚えていなかった。やがて気付いた時は、顔に雪が降り積もっていた。私は河岸の僅かばかりの砂地に倒れていた。起き上ろうとした時、ズボンの膝から血汐が流れ出していた。巻ゲートルを外して傷口を縛り、あとは無我夢中で、水勢強い野呂川をジャブジャブ徒渉しながら小屋まで辿りついた。
    (中略)
大正7年7月(註:山崎安治ー日本登山史によると大正5年)暁星を卒業後、中学の下級生4名を誘って、前年すでに長次郎雪渓から登ったことのある剣岳を早月川白萩谷から入り、赤兀山からの山稜を大窓の頭、小窓の頭、剣頂上、別山へと岩稜縦走したのも、小供心に味をしめた岸壁の魅惑の誘いと思っている。この時は小窓の頭の幕営から登って剣岳頂上で日が暮れ、頂上真下の巨岩の蔭に入って一夜を明かした。翌日、剣から別山山頂に下りて来た時、偶然にも同級生の麻生武治、中川嘉一郎両君がこれから剣へいくのだといって、天幕を張っていた。後日、夏休みが終わり、9月に登校した日、両君から聞いたことであるが、麻生、中川両君が別山に幕営していたところに、後から慶大山岳部の大先輩二名が案内者数名と剣岳背陵縦走の一番乗りを志してやって来た。私たちの中学生隊が、しかも案内者無しにお先に剣岳陵の完全縦走の話をしたところ、大先輩たちは私たちの初縦走を否定して信じなかったということであった。案内者も無しに、しかも中学3年生をも混えての連中に、剣の岩陵の完全縦走などできるはずがないと主張したそうである。
この岩陵は数年前に、別山から部分的な縦走を案内者を連れた木暮理太郎さんたちがした記録が残っていた。私はそんな人々の得意な記録などは知らなかった。ただ富山平野からそそり立つあの特異な剣岳の山稜と岩肌が、日本海への日没前の夕映えに輝く、力強い岩山の魅力に惹かれて登っただけである。

なお、上記の山行を裏付ける記載が山崎安治著 新稿日本登山史(1996年、白水社)に記載されているので紹介する.

「大正5年7月には劔岳に登る登山者も多く、若林祐次郎、中山益太郎らは、東京暁星中学の生徒4人と大沢で合流した。人夫をあわせて総勢20人の大部隊で針ノ木峠を越えて平から立山に登り、別山で野営、7月26日人夫を残し、一行14名が斂沢へ下り長治郎谷から劔岳に登って、中山は数年前までは登攀絶対不可能といわれた劔岳も容易に登れるようになり、「山の価値が下りたる心地致し候」と日本山岳会へ便りを寄せている。暁星中学生というのは舟田三郎らのことであろう。」
 
「南アルプスの積雪期登山は、大正6年4月、暁星中学在学中の舟田三郎らが単独で夜叉神峠を越え葉川から北岳に向かったが、北岳につづく岩壁ですべり落ちて負傷し、不成功に終わったものや、同年11月、舟田がふたたび麻生武冶と大武川谷に雪上露営し、鳳凰山を試みたが、これも吹雪のため退却している登山……」

●当サイトでは部歴掲載情報を募集しています
追加・修正・補完情報等がございましたら こちら までご連絡いただきますようお願いいたします【暁星山岳部OB会事務局】