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(2015年 1月)

ヴィクトリア時代のシャーロック・ホームズと明治時代の日本

江戸時代の乗り物はカゴでした。かなり窮屈な思いをして乗っていたようです。明治初期にはなくなったとされています。明治に入ると人力車が盛んに利用されるようになり、馬車(乗合馬車;円太郎馬車)も出てきましが、多くの人が日常的に利用しているのは人力車で、その様子は一葉の小説にも書かれています。当時のロンドンにはない移動手段でした。ロンドンでは、シャーロック・ホームズが良く利用したのは辻馬車でした。

明治5年に蒸気機関車がイギリスから輸入されましたが、明治15年東京馬車鉄道(日本で初めての私鉄)が開業します。明治28年には琵琶湖疏水の水力発電の出力で日本初の電車が京都で走りました。

樋口一葉が二十歳の頃(明治25年)発表した「十三夜」、「別れ霜」などの小説には、定期収入のない車夫の話が出てきます。

・「十三夜」
一人並の男になりながら何の不甲斐ない車夫風情にまで落ちぶれてずとも事の外に仕様のあらうものをと大言吐きし昔の心の恥かしさよ誰れが好んで牛馬の代わりに油汗ながし塵埃の中馳せ廻るものぞ仕様模様の竭きはてたればこそ恥も外聞もないまぜにからめて捨てた身のつまり無念も残念も饅頭笠のうちに包みて参りませうと聲低に勧める心いらぬばかりもぎどうに過ぎ行く人それはまだしもなりうるさいはと叱りつけられて我知らずあとじさりする意気地なさまだ霜こほる夜嵐に辻待の提燈の火の消えかへる迄案じらるるは二親のことなり馴れぬ貧苦に責めらるると懐(くわいきょう)の情のやる方なさとが老體の毒になりてや

「万世橋に来る頃には鐡道馬車の喇叭の聲はやく絶えて京屋が時計の十時を報ずる響き空に高し」

・「別れ霜」
「もと富家に人となりて柔弱のみ育ち身は是とおぼえし芸もなく」と家が没落した男は車夫に身を落としと嘆いています。
維新以降、立身出世が叫ばれている世に、車夫をしながら更に身をたてていく姿と、車夫以上になれない男。時代の底辺の人を演劇のような感覚で描いた一葉の小説です。

一葉(奈津、夏子、なつ)は漱石より5歳年下。明治9年4歳の時、法真寺(文京区本郷5-27-1)の左隣に引っ越し5年間を過ごす。吉原遊郭近くの下谷龍泉寺の近くに母瀧、妹邦子と住み、駄菓子や雑貨店を営んでいた店をたたみ(明治23年1890年)、18歳の時、本郷菊坂町70番地に転居し3年間を過ごします。一葉20歳の時、明治25年(1892年)「武蔵野」「別れ霜」「たま欅」「経づくえ」を発表。明治27年4月(1894年)に本郷丸山福山町4に転居し「大つごもり」を発表。
これから亡くなるまでの14か月、翌明治28年(1895)に一葉は「たけくらべ」、「にごりえ」、「十三夜」など次々発表、一葉23歳の時です(1872年5月2日明治5年生まれ)。明治29年(1896)11月23日に肺結核のために歿します。
1892年明治25年~1896年明治29年の間に制作した最初の作品が「闇桜」、最後の作品が「われから」です。

シャーロック・ホームズの日本訳が出たのは、
1894年明治27年に「唇の捩じれた男」が「乞食道楽」という表題で「雑誌、日本人」で4回連載されています。
原作の発表は1891年です。

「たけくらべ(1895年明治28年)」が世に出る頃にはシャーロック・ホームズの作品は翻訳出版され、日本で読めたことになります。1899年明治32年「血染めの壁」の題で、「緋色の研究」が毎日新聞に掲載されています。一葉の本の挿絵とシャーロック・ホームズの挿絵には同時代の東京とロンドンの様子がわかります。

ロンドンのホームズ作品によく出てくる駅
・西に行く場合:駅はグレイト・ウエスタン鉄道(GW)終着駅がパディントン駅 行先はブリストル、デヴォン州西部
・西北部に行く場合:ロンドン・アンド・ノースウエスタン鉄道(L&NW)ユーストン駅が終着駅、リヴァプール、
  バーミンガム、西北部
・中部に行く場合:ミッドランド鉄道(MID)終着駅聖パンクラス駅 シェフィールド、リーズ 中部
・北に行く場合:グレイト・ノーザン鉄道(GN)終着駅キングスクロス駅 ドンカスター、ヨーク 北部
・東に行く場合:グレイト・イースタン鉄道(GE)終着駅リヴァプール街、フェンチャーチ街駅 ケンブリッジ、ノーリッジ 東部
・南部に行く場合:ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道(LB&SC)終着駅駅 ブライトン、イーストボーン 南部
・東西に行く場合:サウス・イースタン鉄道(SE)終着駅キャノン街、チャーリング・クロス駅 フォークストン 東西部
・西南に行く場合:ロンドン・アンド・サウスウェスタン鉄道(L&SW)最終駅はウォタルー駅 サウザンプトン 西南部
・東南部に行く場合:ロンドン・チャタム・アンド・ドーヴァ鉄道 最終駅 ヴィクトリア駅、ホウバーン陸橋 カンタベリー、
  ドーヴァ 東南
・西北近郷区に行く場合:グイレクト・セントラル鉄道(GC)終着駅マリルボーン駅 西北近郷区、マンチェスター
 (シャーロック・ホームズの鉄道学 松下了平 JTB)

1863年蒸気機関車で引っ張る地下鉄が開通します。
シャーロック・ホームズの作品の中に出てくる、ブラッドショーとは『ブラッドショウの鉄道時刻表』(ジョージ・ブラッドショーによって発行された世界初の鉄道時刻表)という本で、1839年に創刊されました。これが世界で最初の時刻表だといわれています。1841年12月号からは月刊となります。千頁を越える大きな本で、内容は本文、地図、索引、広告から成っています。本文には大ブリテンとアイルランドの全鉄道および航路の全列車を平日と休日にわけて全駅の時刻を記載しています。加えて各頁には旗印、指示形、十字形、イタリックの小文字、星印などでしるす暗号のような脚注がぎっしりと書き込まれています。ホームズが暗号を解くとき、イギリスのどの家庭にもある本で、聖書の次にブラッドショウの鉄道時刻表が出てきて、事件の解決に使用されるのです。
「ブラッドショウの鉄道時刻表」は「恐怖の谷」、「ぶな屋敷」、「アベ農園」などに出てきます。

・「踊る人形」の謎に、ドイルが参考にしたのではないかと思われる記述が、エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」の文中で、「海賊キッド」の謎解きに説明されています。英語で一番頻繁に出てくる文字はe,a,o,i,d,h,n,r,s,t,u,y,c,f,g,l,m,w,b,k,p,q,x,zの順です。eの頻度が際立っています。「踊る人形」の方達が多いには、eとなるという謎解きは、ポーと同じ解読の仕方です。・モーリス・ルブラン作品の「日光暗号の秘密」では、日光反射の回数が暗号になっていて、ルパンはその意味を解きます。更に暗号文の中にもう一つの暗号を隠した内容も解き明かします。それは、男爵の持ち馬でグランプリを獲得した名馬の名前を金庫を開ける合言葉にしていたのです。

・「白銀号事件」でダートムアに向かうなか、ホームズが列車の速度が時速53マイル半というくだりがあります。この速度計算を、ホームズがどのように算出したのかが議論を呼んでいます。

・シテイの西は「唇のねじれた男」で阿片窟「金の延べ棒」のあったところです。「瀕死の探偵」では、ロザハイズにあるテムズ川近くの横丁で、ホームズがある事件を調査していて、スマトラから入ってきたクーリー病という伝染病にかかり瀕死の状態に陥ります。テムズ川と言えば「四つの署名」で名シーンが(犯人の船とスコットランドヤードの船との追いかけっこ)繰り広げられます。

・ベーカー街のホームズの部屋から3キロ西北に地下鉄ウエスト・ハムステッド駅があり、その南にプライオリー・ロードがあり、夏目漱石の1900年11月に借りた下宿があります。週2ポンド。1901年2月9日の漱石の手紙にベーカー街の一本西のグロスター・プレイス55のaに長く住んでいるグレイグ先生にシェィクスピアを教わりに行くと記されています。

・リージェント街は「ヴスカヴィルの家」でホームズがチャールズ・バスカヴィル卿の主治医で依頼人であるモーティマー博士の後をつけた街で、「高名な依頼人」ではグルーナー男爵の手下によって脅しのために、ホームズが襲撃された場所です。「ボスコム谷の惨事」では、地主ジョン・ターナーが投資のためで出かけたところです。偶然、ろくなコートも着てなく、靴も履いていなかったオーストラリア時代のマッカーシーと再会した街です。

・ランガム・ホテルは、「ボヘミヤの醜聞」「四つのサイン」「フランシス・カーファックスの失踪」に出てきます。

・セイント・ジイェイジズ・ホールは、「ノーマン・ネルダー夫人のヴァイオリンの演奏会」が開かれた「緋色の研究」にでてきます。ネルダー夫人は英国お抱えのヴァイオリニストと呼ばれました。「赤毛組合」の捜査中、このコンサート・ホールでホームズは音楽に心酔して聞き入っています。またホームズはこのホールにサラサーテを聞きに行っています。

・ランガム・ホテルは、ポートランド・プレイスにあります。「ボヘミヤの醜聞」「四つのサイン」「フラーンシス・カーファックスの失踪」に出てくる屋上庭園つきの巨大な建物です。

・チャリング・クロスは、ロンドンの中心街、チャリング・クロス駅があり、ホームズの多くの作品に出てくる地名です。
「有名な依頼人」でワトソンが「殺人者、シャロック・ホームズ氏を襲撃」の新聞の見出しを読み驚きます。「ボヘミヤの醜聞」「唇のねじれた男」「ギリシャ語通訳」「バスカヴィル家の犬」「ウイステリア荘」「金縁の鼻眼鏡」「アビ農園」「トール橋」「高名の依頼人」に出てくる地名です。チャーリングクロスロードは本屋街で、「ブルースーパーティントン設計図」に出てくるチャーリング・クロス・ホテルはチャーリング・クロス駅の上にあります。

・ロイヤル・アルバート・ホールは、漱石が「当地で有名なpatty(パッテイ)という女性の歌を「ロイヤル・アルバート・ホール」に聞きに行くつもりと手紙に書いています。(寺田寅彦宛)「隠居絵の具師」の時、ホームズはホールを訪れています。

・ライシャーム劇場は、「四つのサイン」でメアリー・モースタン嬢とワトソン、ホームズが劇場の入り口で、サデイアス・ショルトと待ち合わせしたところです。1901年に漱石がこの劇場へ「ベニスの商人」を見に行っています。ストランド通りにあり、ホームズとワトソンが食べに行った、シンプソンズのレスランもあります。

・大英博物館は、ホームズが探偵業を始める前モンタギュー街に部屋を借りて通ったところです。南方熊楠(1867~1897年)が中国研究部長ロバート・ダグラスのもとで、参考資料係として働いたのは、1893~1898年の間でした(正式社員ではなかった)。南方の下宿はユーストン駅のすぐ前、ユーストン・スクエアー24で大英博物館に近く、漱石の最初の下宿76, Gower Streetも近かったようです。
「マスグレーヴ家の儀式」「バスカヴィル家の犬」「ウィステリア荘」「赤い輪」に大英博物館は出てきます。

・「緋色の研究」でセント・バーソロミュー病院はワトソンが軍医になる前に研修を受けた病院で、ワトソンはスタンフォード青年からこの病院の化学実験室で研究していて同居人を探しているホームズを紹介されます。「アフガニスタンにおられたのでしょう」とワトソンに話しかけてきたホームズのことばを彫ったブロンズの板が病院に掲げられています。

・コヴェント・ガーデン劇場は、「赤い輪」でホームズとワトソンはワーグナーを聞きに行きます。

・ノーサンバランド・ホテルは、チャリング・クロス駅の南西にノーサンバーランド通りがあり、駅よりノーサンバーランド街へ曲がる角にあります。「バスカヴィル家の犬」の作中、サー・ヘンリー・バスカヴィルの宿泊先の宛先はノーサンバランド・ホテルでした。

・ノーサンバーランド通りは、「高名な依頼人」では、ホームズとワトソンはトルコ風呂に目がなかったので、浴場の上の階に、二つの長いすが並べて置かれたひっそりした一角があり、私たちは、1902年9月3日、そこに寝そべっていました。
「フランシス・カーファックスの失踪」では、気分転換にワトソンがトルコ風呂に行ったことから物語が始まります。 

・ヴィクトリア駅は、「最後の事件」で、ホームズとワトソンがモリアーティ教授から逃れるために出発した駅です。

・ペルメル街; 兄マイクロフトは、ここのディオゲネス・クラブ(人付き合いが嫌いな人間ばかりが集まったクラブ)の創始者の一人で会員です。

・ダウニング街;「海軍条約文書」でパーシー・フェルプスが紛失した書類の件で、彼の伯父で外務大臣のホールドハースト卿の執務室がありました。

・グッジ街;「青いガーネット」でヘンリー・ベイカーはこの場所でからまれ、帽子とクリスマス用の鵞鳥を落としてしまいます。

・セント・ジョージ教会;「独身貴族」ではロバート・セント・サイモン卿とハティ・ドーラン嬢はここで結婚式を挙げましたが、ハティ・ドーラン嬢は、結婚式後見知らぬ男と消えてしまいます。

・ホワイトホール; ロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスター内を南北に走る道路で、トラファルガー広場の南端に位置するチャリング・クロスまでを通り抜ける大通りです。道沿いにはイギリスの中央省庁や政府機関が数多く立ち並んでいて、イギリス政府の中枢として認識されています。このことから、"ホワイトホール"の名称はこの通り一帯の地名としてだけではなく、暗にイギリスの政府を示すような意味合いとして用いられることもあります。

・多くの話には電報が出てきますが、「三人のガリデブ」では電話が出てきます。「高名な依頼人」でも、ホームズは電話を使って確認しています。

日本は車引きで人力車の車夫が多かったのですが、ギリスは駅馬車が発展していて、馬車の馭者が多くいました。
(出てくる馬車の種類)
ランドー馬車;  折り畳み式幌をつけた四輪馬車
ブルーム馬車;  一頭立て四輪箱馬車、四分の四拍子のリズム
グロウラー(クラレンス)馬車; 四輪辻馬車(四人乗り)、三拍子と二拍子の混合リズム(鉄車輪が路肩の敷石にあたる音らしい)
ハンサム馬車;  一頭立て二輪辻馬車(御者は後ろに座っていたり立っていたりして運転する二人乗り)
  ・・・上着の袖の肩のところにハネが上がっているのは、ワトソン、君は誰かと一緒にハンサム馬車に乗っていたね。・・・
トラップ二輪軽装馬車; トラップはこのあたりにいるはずだと、「唇がねじれた男」でホームズは両手の人差し指をくわえて、甲高く指笛を吹きます。すぐ後に車輪のガタガタという音と蹄がカチカチという音がしました。トラップ二輪軽装馬車は三拍子のリズムらしいですが定かではないようです。

・ガス灯は1797年にマンチェスターでスコットランド人のウイリアム・マードックにより設置されています。アーク灯は1876年にロシアのP・N・ヤブロチコフが実用化しパリの街路を照らしました。1879年、サー・ジョゼフ・スワンが白熱電球を発明します。イギリスのゲーツヘッドのロウ・フェルにあったスワンの家が電球の灯った最初の家となりました。1881年『スワン電灯会社』が商業的に電球の生産を始めました。1883 年、エジソン & スワン連合電灯会社が設立されました。1881年にスワンが発明したセルロース製フィラメントを用いた電球を販売しました。エジソン製は竹製フィラメントを使い続け、1892年ゼネラル・エレクトリック社が創立された後、エジソン製はセルロースのフィラメントに転向しました。

・「バッリ」に関すること
嘉納治五郎;嘉納氏は1877年明治10年創立の東京大学に一期生として入学。講道館で「柔」の形、固の形を制定します。
1888年リンゼイとの共著『Jujutsu The Old Samurai Art of Fighting Without Weapons』発表。
その後、1890年にロンドンに行っています。

外遊から帰国した嘉納は、1891年明治24年、熊本の第五高等学校校長に任ぜられ、彼は「瑞邦館」という柔道場を設けました。またラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から引き抜き招聘しました。小泉八雲は嘉納氏が柔術を教えている建物「瑞邦館」を紹介しています。「JIUJUSU」というエッセイ、1893年の手紙で「私は柔術の哲学に関するエッセイを書いている」と述べています。これは1895年刊行の『東の国からOut of the East』に収録されました。

二十歳の学生の嘉納治五郎は第18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラント(南北戦争の英雄)が来日し、渋沢栄一は天神真楊流の柔術家を集め、グラントの前で演武させました。嘉納も出ていました。漱石が帝国大学を出て就職したのが東京高等師範学校でその校長が嘉納治五郎でした。漱石が師範学校と他の高等学校と二股をかけ、嘉納治五郎は高等師範に来るように言います。学習院での講演「私の個人主義」で高等師範学校、松山中学校、熊本高等学校に就職したいきさつが述べられています。松山中学校では「我輩は猫である」の赤シャツが、文学士は漱石(私)しかいないといいます。熊本高等学校の時、英国に留学の話が来たいきさつも述べられています。
夏目漱石が留学時代にプロレスを見に行ったときに、試合に出るはずと言われていたのが、谷幸雄でした。
谷幸雄(スモール・タニ)については、http://en.wikipedia.org/wiki/Yukio_Tani を参照してください。

・bartitsu「バリツ」;
 ホームズが「空家の冒険:1903年」でライヘンバッハの断崖で「バリツ」を使って助かったと述べています。
「空家の冒険」でのホームズの「バッリ」とは何でしょう?
牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男:親戚の牧野家に養子で入る)、英文学者吉田健一(福井藩士・渡辺謙七の長男。イギリス軍艦でイギリスに密航、2年間滞在英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任した)、吉田茂(父:竹内綱の五男:吉田健三氏の養子となる)、東条英機将軍の弁護人であったジョージ・F・ブルーイット、シカゴ・トリビューン紙特派員ウォルター・シモンズらが戦後のアメリカ占領下の東京で、ベーカー・ストリート・イレギュラーズ東京「バッリ支部」を作ります。日本語に「バッリ」という単語はありません。「バッリ」という語は「柔術」という意味か「柔道」という意味か、日本の武術一般を示すのかわかりません。

*バーティツ;バートン流柔術の略、「日本の柔術に、ステッキ術と打撃技を合わせた護身術」をbaritsuと名付けてイギリス人と谷幸雄がロンドンで教えていていた。bujitsuをbaritsuと間違えたのだという可能性がある。ドイルは幼い時からの生活を共にしていた、友人のウイリアム・K・バートン(外国人技師として日本に雇われていた)から知識を得ていたと思われる。谷は英国人と日本に来ています。



・倫敦留学中の漱石の下宿(ホームズが活躍した当時)
夏目漱石は明治33年(1900)33歳で10月28日国費留学生として英文学研究(当時、英文学という学問はどこの国にもなかった)のためイギリスへ留学、明治35年(1902)35歳で帰国。(明治35年~大正12年日英同盟が結ばれる)

(漱石が留学時に過ごした、5つの下宿)
最初の下宿
76, Gower Street, London ガウワーストリート:最初の下宿は北の高台、ここは宿屋より遥かに安直なれども一日に部屋食料等にて六シ許を要し候 到底留学費を丸で費ても足らぬ故早くきり上がる積に候(明治33年10月30日妻鏡子への手紙より)         

大学先輩の大塚保治に教えられたこの下宿料は高すぎました。滞在期間は1900年10月28日~1900年11月11日
この下宿の周囲を書き表しています。表へ出ると、広い通りが真直に家の前を貫いています。試みにその中央に立って見廻して見たら、眼に入る家はことごとく四階で、またことごとく同じ色でした。隣も向うも区別のつきかねるくらい似寄った構造なので、今自分が出て来たのははたしてどの家であるのか、二三間行過ぎて、後戻りをするともう分らない。不思議な町です。

漱石は「印象、永日小品」で初めてロンドンの街で人の海におぼれたと記述しています。

異人たちが皆シルクハットをかぶるのに驚きます。女性は頭に軍艦を乗せたような、飾りのある重そうな帽子を愛用し、道を引きずるほどのスカートをはいています。顔の前に網をたらしたレディーもいて、まるで角兵獅子です。

二番目の下宿
ロンドン西北部85 プライオリー・ロード・ウエスト・ハムステッド(85, Priory Road, West Hampstead, Miss Milde(ミス・ミルド、マイルド)方)
「始めて下宿したのは北の高台です。赤煉瓦の小ぢんまりした2階建てが気に入ったので、割合に高い一週二ポンド(24円)の宿料を払って、裏の部屋を一間借り受けた」
永日小品の「下宿」に書かれています。滞在期間 1900年11月12日~12月下旬

その日は昼食を外でして、三時過ぎに帰って、自分の部屋に入ると間もなく、茶を飲みに来いと言って呼びに来た。・・・石炭・・・燃えついたばかりの焔に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火照った上に、心持御白粉をつけている。自分は部屋の入口で化粧の淋しみと云う事を、しみじみ悟った。1900年(明治33年)自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君(長尾半平;台湾総督府勤務)はスコットランドから帰ってきた。その時自分は主婦によってK君に紹介された。K君とは、2番目のハムステッドのミス・マイルドの下宿屋の同じ屋根の下で暮らした。散歩や近くの料理店に二人で出かけていた。勘定は必ずK君が払ってくれた。
自分は日本を出たままの着物が大分汚れて、見共ない始末であった。K君は余りだと言って新調の費用を貸して呉れた。「永日小品」(過去の匂い)。文鳥・夢十四 夏目漱石 新潮文庫

下宿の主人(ミス・ミルド、マイルド)はドイツ系の女性で、下宿には他に彼女に血のつながりのない父、この父の実の息子、それに13、14歳ぐらいの女中という複雑な家族構成です。漱石はこの家族の不仲、淋しさ、暗さという雰囲気が不快になり、また金銭的な問題もあって、約1ヶ月半しか滞在しませんでした。

昼食が付いていなかので昼食のたびに外出すると、割合に高い宿料になるのためと言われています。
この下宿については、「永日小品」中の「下宿」と「過去の匂い」に描かれています。

三番目の下宿
ロンドン南東、テムズ河の南のカンバウェル・ニュー・ロード6フロッデン・ロード(フロッドン街)(6, Flodden Road, Camberwell New Road, Mr Brett(ハロルド・ブレッド氏方) 

下層階級の住む通りが、カンバウェル・ニュー・ロードで、そのはずれ近くを西側(右手)にはいったところにあるややましな住宅地が、フロッデン・ロードです。宿賃は三食付で一週間1ポンド5シリングでした。ハムステッドのプライオリー・ロードでの一週二ポンドの昼食抜きのマイルド家よりかなり安くなりました。滞在期間 1900年12月下旬~1901年4月24日

『以前の処は東京の小石川の如き処に存候今度の処は深川という様な何れも辺鄙な処に候 即ち北西より南東に転居致候 日本にて三里許りの道のり有之馬車を備ひて書物を載せて宿替随分厄介なれど日本の書生の如くランプを手に持つ様な不体裁は無之候』
(明治33年12月26日付け 妻鏡子宛ての書簡より)

漱石が移ってきたこの下宿の家族構成は、主人のブレット夫妻、ブレット夫人の妹ケイト・スパロー、下女、女学生、使用人、そして日本人下宿人数名でした。ブレット夫人と妹のケイトは下宿屋を始める以前、小さな私立女学校を経営していましたが、伝染病が発生して閉鎖、以後下宿屋になりました。

*家の女主人公(ブレット夫人)は固の女学校の校主にして、其の妹(ケイト・スパロー)たるや学校の音楽教師たりと云ふ訳さ。そして此姉が閉校後結婚して、亭主も同宿して居る。其外に元の女学生が一人居る。こう云ふと大変上品の様に聞える。僕も其積りで移つたのであるが、移つて段々話しをして見ると誰も話せる奴はない。書物抔は一向知らない。

*去年までは女学校であったので、ここの神さんと妹が経験もなく財産もなく将来の目的もしかと立たないのに自営の道を講ずるためにこの上品のような下等のような妙な商売を始めたのである。彼らはもとより不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。・・・そこでもって、家賃が滞るー倫敦の家賃は高い~~借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校します。……運命逆さまに回転するとこう行くものだ。

*(下宿の様子)此女将軍の英語たるや、学校の主幹たりし丈にわるくはないけれども、決して上品にあらず、且六づかしき字抔は知らず、会に俗に用いない字を使ふと「アクセント」や発音を間違へる。此方の言語がムヅカシクて分らなくても、日本人に聞ては英国婦人の品位が落ちると云ふ様な顔で知たふりで通す。
其妹の方は極めて内輪だ。賢婦人である。教育はさしてないが、あるふりをせぬ丈が感心である。夫から亭主もいゝ奴だが頗る無学で、書物抔は読んだ事もあるまい。
  
1900年に2か月間、ロンドン大学でウイリアム・カー教授の講義を聴講し、その講義の聴講を取りやめ、カー先生を通じての紹介で、シェイクスピアを専門とする、グレイグ先生を紹介される。漱石はこの下宿時代、クレイグ先生を訪れる、書店へ赴く他に、田中孝太郎と頻繁に散歩や観劇に出歩いています。田中幸太郎は横浜商業学校卒で、横浜にあった貿易会社サミュエル商会支配人の長男。ロンドンサミュエル商会勤務中でした。

◎「グレイグ先生」
アイルランド人のクレイブ先生はウエールズのある大学で英文学を教えていました。シェイクスピア辞典を作るために、毎日大英博物館へ通う時間がほしくて、職を捨てて、今の暮らしをしています。
先生に、シュミッドのシェイクスピア辞典があるのに、まだ作るのですかと尋ねたら、先生の持っている辞典の前後二巻の一ページ目から書き込みで真っ黒になっています。「シュミッドと同じ物を作るならこんなに骨折りしない」と言われました。

クレイブ先生の個人教授を受けるため、週一回火曜日に出かけます。グレイグ先生は燕のように四階の上の屋根裏部屋で狭い階段を上がっていくと、目指す幅三尺足らずの黒い戸の扉が現れます。真鍮のノッカーがぶら下がっているだけです。メガネをかけた五十ぐらいの女性(ジェーン)が、いらっしゃいと、開けてくれます。一回七シリングでどうじゃ、多すぎるようなら負けてもよいと言われました。一回七シリングで月末に金額を支払うことにしていましたが、時によると金が要るから払ってくれんかと言われました。アイルランド人でことばがすこぶるわからない。いつも縞のフランネルを着て、むくむくとしたスリッパを穿いていて、足をストーブに突っ込むくらい出して、時々膝をたたく。いつかベーカーストリートであったとき、鞭を忘れた御者かと思った。先生は沙翁辞典を作るために研究しています。日本の大学に西洋人の教授は要らんかね。と尋ねられました。
 日本に帰って二年ほどしたら、新着の文芸誌にクレイグ先生が死んだという記事が出ました。

(ヴィクトリア女王の葬儀)
*漱石は1901年1月22日、デイリー・テレグラフに載っていた女王危篤の記事を読んでいました。(日記)

漱石がヴィクトリア女王の葬儀を朝9時下宿(カンバウェルの主人)ブレッド氏と出かけ、さすがの大公園(ハイドパーク)も人間にて波を打ちつつあり園内の木々皆人を結ぶ。漸くして通路に至るに到底見るべからず。下宿の主人余を肩車に乗せてくれたり 漸くにして行列の胸以上を見る、柩は白に赤を以て覆われたり。
1901年2月2日。 『漱石全集 第19巻 日記・断片 上』(岩波書店、1995)

2月2日 土 漱石が留学した翌年1901年(明治34年)に一月にヴィクトリア女王が亡くなる。軍葬で行われ2月1日、ヴィクトリアの棺は霊柩船でポーツマス、特別列車でヴィクトリア駅まで移送されました。そこからエドワード7世とヴィルヘルム2世を先頭にした軍隊の葬列を伴って馬車でセント・ジェームズ宮殿まで移送されました。在位63年に及ぶ。
『漱石全集 第19巻 日記・断片 上』(岩波書店、1995)

2月2日 土 引用 Queen ノ葬儀ヲ見ントテ朝九時 Mr. Brett ト共ニ出ヅ Oval ヨリ地下電気ニテ Bank  ニ至リ夫ヨリ Two pence Tube ニ乗リ換フ Marble Arch ニテ降レバ甚ダ人ゴミアラ ン故 next station ニテ下ラント宿ノ主人云フ 其言ノ如クシテ Hyde Park ニ入ルサ スガノ大公園モ人間ニテ波ヲ打チツツアリ 園内ノ樹木皆人ノ実ヲ結ブ漸クシテ通路ニ 至ルニ到底見ルベカラズ宿ノ主人余ヲ肩車ニ乗セテ呉レタリ漸クニシテ行列ノ胸以上ヲ 見ル、柩ハ白ニ赤ヲ以テ掩ハレタリ King, German Emperor 等随フ 

エドワード7世は、始めて国会を開く開院式で大騒ぎです。この間ヴィクトリア女王の葬儀で閉口したから行かない。1902年2月14日の漱石の日記に記されています。

(倫敦消息では劇場が出てくる)
「倫敦消息」で「イースター・モンデー」なのでところどころで興行物があった。その雑報がある。「アクエリアム」で熊使いが熊を使うと云う事が載ってる。・・・面白そうだ。此度は広告を見た。「ライシアム」で「アーヴィング」が「シェクスピヤ」の「コリオラナス」をやると出ている。せんだって「ハー・マジェスチー」座で「トリー」の「トェルフスナイト」を見た。・・・「アーヴィング」のも見たいものだ。十一時五分前になった。書物を抱えて家を出た。
他の劇場は、シアター・ロイヤル・ヘイマーケット(ヘイマーケット王立劇場)、ヒッポドローム、ロイヤル・アルバート・ホール、などがある。

(倫敦消息の地下鉄の話)
下宿は東京で云えば深川(橋向うの場末)というところにあたる。週に一二度出るために「ケニントン」まで歩き、地下鉄に乗る。
十銭払って「リフト」へ乗った・・。駅夫が入口をしめて「リフト」の縄をウンと引くと「リフト」がグーッとさがる、それで地面の下へ抜け出すという趣向さ。・・・穴の中は電気灯であかるい。汽車は五分ごとに出る。
穴の中を一町ばかり行くといわゆる two pence Tube さ。これは東「バンク」に始まって倫敦をズット西へ横断している新しい地下電気です。どこで乗ってもどこで下りても二文すなわち日本の十銭だからこう云う名がついている。乗った。ゴーと云って向うの穴を反対の方角に列車が出るのを相図に、こっちの列車もゴーと云って負けない気で進行し始めた。車掌が next station Post-office といってガチャリと車の戸を閉めた。とまるたびにつぎの停車場の名を報告するのがこの鉄道の特色なのだ。

(新聞広告の話)
我輩が以前下宿をさがす時 Daily Telegraph の下宿の広告欄を見た事がある。始めから終りまで読むのに三時間かかった。今は「テレグラフ」を取っておらん、「スタンダード」です。この新聞は上品な新聞だからここへ出る広告なら間違はないと思って四月十七日の分の広告欄を読み始めると、存外営業的のが多くって素人家へ置きたいと云うのが少ない。

漱石の興味を持った人物で名はベン(ブレット家に雇われている、引っ越しに伴い解雇される。)朋友、敬服、へきえきすることころの朋友が、ベン、あだ名はbedge pardon なる聖人のことを少し報告しないでは何だか気がすまないとの話は興味深い。(倫敦消息)


ブレット夫人から、そこで、夏目さん、あなたご存じの方でいらしていただく方はありますまいか。と尋ねられる。元来我輩は江戸っ児です。へー行きましょうとは答えなかった。
漱石はブレッド家と一緒に次の下宿に行ってくれるかと言われ、新聞広告で漱石は次の下宿探しをしていて、
それじゃこうしよう、いずれ先方から返事が来る、来ればひとまず行って室を見て、それが気に入らなかったら君の方へ行くとしよう、ほかを探す事はやめにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどのくらいの程度だか分っていれば、聞き合せるまでもない御望みに応じたのだが、こうなっては仕方がない。まず先方の返事次第ですね。その代りほかはけっしてさがさない。あれがいけなければきっと君の方へ行きますよ」。亭主は御邪魔様といって下りて行った。(倫敦消息)

「倫敦消息」で引っ越しの模様が書かれています。今度は円太郎馬車で新宅の横町の前まで来た。「どれが家ですか」と聞いた。向うに雑な煉瓦つくりの長屋が四五軒並んでる。前には何にもない。砂利を掘った大きな穴がある。東京の小石川辺の景色だ。長屋の端の一軒だけふさいであとはみんな貸家の札が張ってある。塞がっているのが大家さんの内でその隣が我輩の新下宿、彼らのいわゆる新パラダイスである、はいらない先からききしに劣る殺風景な家だと思ったが、這入って見るとなおなお不風流だ。しかのみならずどの室にも荷物ほうり込んであってまるで類焼後の立退場のようだ。ただ我輩の陣取るべき二階の一間だけが少しくはかたづいてオラレブルになっている。以前の部屋よりも綺麗だ。装飾もまず我慢できる。
以前のところは東京の小石川、今度のところは深川のようだと漱石は言っています。(倫敦消息)

・・・「カムバーウェル」のような貧乏町の隣町の下宿に昨年末から今日までいたのです。
大家とともに退去せねばならぬ事となりました。次に行ったのは5, Stella Road, Tooting Graveney,です。

四番目の下宿
5, Stella Road, Tooting Graveney, Mr Brett方 滞在期間 1901年4月25日~7月19日
大家の引っ越しに伴ってStella Roadにやってきたが、家の造りは安っぽく、下宿の回りには何もない寂しいところだった。日記にも「聞シニ劣ルイヤナ処デイヤナ家ナリ永ク居ル気ニナラズ」、「ツマラヌ処ナリ」など書かれていた。

この下宿で漱石は後に「味の素」を発明した池田菊苗と同宿し貴重な体験をします。
池田菊苗(ドイツ留学後、ロンドンのロイヤル・アカデミーに留学した化学者、味の素発見者、文学、哲学、宗教など幅広い知識を持っていた)がしばらく逗留します。二人は、昼は散歩、夜は連日のように議論をしました。漱石は「幽霊のような文学をやめて、もっと組織だった研究をやろう」(「処女作追懐談」より)と思い始める。

漱石著の「カーライル博物館」の訪問の時、池田菊苗氏と一緒に行っています。(カーライル博物館には二人のサインが残っている)

五番目の下宿
81, The Chase, Clapham Common Miss Leale方滞在期間 1901年7月20日~1902年12月5日
『午前Miss Leale方ニ引越シス 大騒動ナリ 四時頃書籍大革来ル 箱大ニシテ門ニ入ラズ 門前ニテ書籍ヲ出ス 夫ヲ三階ヘ上ル 非常ナ手数ナリ 暑気堪難シ 発汗一斗許リ 室内乱雑膝ヲ容ルル能ハズ』(7月20日の日記より)

河南のザ・チェイス81番この家は、リール姉妹の持家で、クラパム・コモンという大きな公園の近くの住宅地です。
リール姉妹は教養もあり、上品でした。漱石は下宿探しの広告を出しましたが、結局他に適当な下宿を見つけることが出来ずチェイス通りのミス・リード方に紹介されます。

二階に退役軍人の老人と渡辺和太郎がいました。三階に入居した漱石は、自室に渡辺和太郎をよく招き入れました。週一ポンド十五シリングでした。

『自分の古い知友、太良(渡辺和太郎:渡辺福太郎:海産物商、石炭屋から財をなし、和種辺銀行、渡辺合名会社等を興した、その長男が和太郎で横浜正金銀行に勤めたのち3年間欧米視察し、倫敦で漱石と知り合う。)は以前から、このリール家の二階に下宿してい  た。たまたま三階に空室が出来て、日本人で下宿の欲しいものがあれば、世話してくれ と、主人から頼まれていました。丁度その時漱石先生は前からの家が思わしくなく、外に適当な所を探していた所なので、太良は早速先生に通知した』(渡辺伝右衛門「漱石先生のロンドン生活」より)

*渡辺和太郎は横浜商業高校を卒業して、横浜正金銀行に勤め、卒業と同時に3年間欧米視察、倫敦にて漱石と出会う。欧米で横浜商業学校を和太郎と同期で卒業した、実業家渡辺伝衛門は和太郎が漱石等と句会、演劇、映画を楽しんだ様子を書き残しました。(漱石先生のロンドン生活)、(渡辺和太郎君小伝、学校の50周年記念誌)
渡辺合名会社代表社員(株)、渡辺銀行取締兼支配人、横浜電気工業株式会社・横浜化学工業株式会社・南太平洋貿易株式会社各取締役、東海鉛管株式会社・サトウライト株式会社各監査役。

『今度の処は御婆さんが二人退役陸軍大佐という御爺さんが一人丸で老人国へ島流しにやられたような仕合いさ。この御婆さんがミルトンやシェイクスピアを読んで居ておまけに仏蘭西語をペラペラ弁ずるのだから一寸恐縮します。』(正岡子規宛の書簡より)

・霧
昨夜は夜中枕の上で、ばちばちという響きを聞いました。近くのクラパム・ジャクソンという大停車場のおかげです。このジャクソンには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってきます。・・・その各列車が霧の深い時には、何かの仕掛けで、停車場間際に来ると、爆竹のような音を立てて相図をします。「永日小品」(霧)に書かれています。

漱石が帰国前に落ち込んでいるのを心配した下宿のミス・リールもしくは医師が、漱石にスコットランドのハイランドにある避暑地ピットロッホリー(漱石はピトロクリーを使用)での休養を勧めたものと思われます。

1902年の秋、 この下宿で漱石は帰国までの約1年4ヶ月間「文学論」の準備のため、三階の自室に閉じこもり読書、思索などに没頭しました。外出も少なくなったため、神経衰弱になったと言われ日本では発狂の噂まで流れました。
心配したリール姉妹が気分転換にスコットランドの旅をすすめました。Pitlochry(ピトロクリ:避暑地)を訪問し、親日家(ジョン・ヘンリー・ディクソンの屋敷;ダンダーラック・ハウス 7)の招待でしばらく滞在しています。「永日小品」(昔)

 ピトロクリの谷は秋の真下にある。主人は腰にキルトというものを着ている。車のひざ掛けのように荒い縞の織物である。
 それを行灯袴に、膝頭まで裁って、たてに襞を置いたか、ふくらはぎは太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。
 歩くたびにキルトの皺が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。・・
 自分は 明日は早朝キリクランキーの古戦場を訪おうと決心した。

・(自転車)
『午前Miss Leale方ニ引越シス大騒動ナリ四時頃書籍大革来ル箱大ニシテ門ニ入ラズ門前ニテ書籍ヲ出ス夫ヲ三階ヘ上ル非常ナ手数ナリ暑気堪難シ発汗一斗許リ室内乱雑膝ヲ容ルル能ハズ』(7月20日の日記より)
同宿の犬塚武夫やリール姉妹が当時流行していた自転車の練習を気分転換に勧めた。

1902年秋、下宿の婆さんに、自転車に御乗んなさいと言われる。ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を選んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる、不肖なりといえども軽少ながら鼻下に髯を蓄えたる男子に女の自転車に稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、と「自転車日記」に記されています。

*Mr.ダンロップの空気タイヤの発明で多くの自転車乗りが増えました。ドイル一家も二人乗り三輪自転車を買い、サリー州の田園まで遠乗りに出かけています。女性サイクリストも増えて、「孤独な自転車乗り」の作品にもなっています。
自転車1885年(明治18年)イギリスではローバー安全型自転車の販売を開始します。側面から見て菱形のシルエットを持つフレームを持ち、現在の自転車に近い姿になりました。
(ジョンボイドダンロップは1888年世界初の実用的な空気入りタイヤを開発しました。)
タイヤの跡から逃げた方向が分かると「プライオリー・スクール」の話で出てきます。

・漱石の探偵嫌い
「我輩は猫」で、・・・「およそ世中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸しほど下等な職はないと思っている」
「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧なんだから困る」
「無論ただの商売じゃない。探偵といういけすかない商売さ、あたり前の商売より下等だね」
もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもします。あれは始末に行かないものです。願はくはもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうです。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂です。
漱石はたいそう探偵嫌いのようです。

  ※漱石が留学していた時期(1990年・明治33年)に戦艦三笠は進水。1992年3月1日サウザンプトンで日本海軍に引き渡し。
   日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と戦った。


・(人種差別)
同時代にロンドンに留学した漱石は、人種差別にも苦しんだと書かれています。倫敦消息や山田風太郎の「眼中の悪魔」のなかの「黄色い下宿人」では、いやなことをロンドンでささやかれることが書かれています。



「黄色い顔」の相談者グラント・マンロウーがコンサルタント探偵に妻エフィーの事を話し出す。ノーベリの自宅からそう遠くないところにある、小さい別荘に引っ越しして来た住人と妻の行動に、疑問を持ったので相談に来た。「黄色い顔」謎を解いた後、グラント・マンロウーが沈黙を破るまでの2分間ほど、長い2分間ではなかっただろうか。その後、ホームズはワトソンに、努力の過信や怠っているように思えたら、耳もとで「ノーベリ」とささやいてくれたまえ・・・。」人種問題を取り上げた作品でした。漱石自身も町を散歩中に、黄色人の事に触れている。また、紳士の国なのであからさまに振り返る人はなかったが、街中でささやかれたことを述べている。

シャーロック・ホームズ作品には、黒人ボクサーにふれた記述があります。「三破風館」「四つのサイン」などで見られます。

・当時のロンドン
1837~1901の間、ヴィクトリア女王が統治していた時代。産業革命などで、イギリスの絶頂期。鉄道が国中にいきわたる。
1863年 地下鉄が開通。電気鉄道も利用します。
1851年 ロンドン万博開催
1859年 ダーヴィンの「種の起源」発表

アレクサンダー・グラハム・ベル、1876年電話の実験成功。グラハム・ベルが薬品をこぼしたときにワトソンに電話をかけたので、電話での最初のことばは「ワトソン君、ちょっとこっちに来てくれないか」というものでした。
電報から電話に変わっていきます。
電話が出てくる作品、
「唇の曲がった男」、「ギリシャ語通訳」、「三人のガリデブ」、「高名な依頼人」、「白面の騎士」、「退職した絵具屋」、「四つの署名」

・株式
推理に株式の話も出てきます。日本は大政奉還の時代です。
「シャーロック・ホームズの帰還」の「株式仲買人」の話は、、株式仲買人のパイクロフト氏が騙されて雇われた会社で事件に巻き込まれます。「踊る人形」でワトソンの南アフリカ株などの話が出てきます。「ブラック・ピーター」でも株券のリストが出てきます。

・レール
最初木製レールでした。1793年鋳鉄によるL型レールが出来ましたが、壊れやすい欠点がありました。1892年以降、錬鉄によるレールが作られました。最初は馬車鉄道でした。1804年に蒸気機関車の実用化に成功します。リバプール・マンチェスター鉄道は、1830年開業からダイヤを決めて走り出しました。貨物と旅客の交通手段ができ大量の輸送が可能になりました。
1840年から1880年・1890年とイギリスの鉄道が伸びていきます。

・鉄道
1863年、ロンドンで世界初の「地下鉄」が開業します。チューブと呼ばれました。
最初は蒸気機関車でしたが、1890年に地下鉄は電化されました。「漱石の倫敦消息」で、エレベーターに乗り、チューブ(地下鉄)に乗る話があります。

19世紀後半に自動車ができて、鉄道と競うようになってきます。


(日本では)
1882年(明治15年)馬車鉄道が始まる。走った後の道では糞尿の処理や給餌のため大変でした。1903年(明治36年)電化により電車が走り出す。
明治2年に東京~京都、東京~横浜、京都~神戸、琵琶湖湖畔~敦賀鉄道を敷く計画が立つ。イギリスの遅れること47年、イギリスの資金、資材、技術者の雇用、沿線の反対、馬子、車引きの妨害などで、明治5年に完成し、新橋~横浜開通。
その後西南戦争等で、京都~神戸間開通をもって停滞。政府決定から20年後東海道全線開通。


・通信
19世紀半ばに電信が導入されました。ロンドンにはいたるところに電信局がありました。

・タバコ
ヴィクトリア朝の「たばこ」が、最も愛された時代に、ホームズは生きました。ブラッドリーの店の前を通れば、一番強いシャグタバコを一ポンドを一ポンド買ってくれ・・とホームズがワトソンにいうセリフがあります。この頃シガレットは、手巻きタバコは貴族で、一般庶民はパイプタバコでした。ロシア版のシャーロックでは、もうもうと煙草の煙がしているし、「シャーロック・ホームズの帰還」や「金縁の鼻眼鏡」で、コーラム教授の部屋では、もうもうとアレキサンドリアのイオニドスから特別に取り寄せた煙草の煙が立ち込めています。

ホームズはタバコをペルシャ製スリッパのつま先や石炭入れの引き出しに入れて愛用しています。一晩に一オンス(約28グラム)ふかしてしまいます。琥珀の吸い口が付いたブライヤーのパイプは普段用。「やに」で黒くなったクレー(陶製)パイプは思索用、桜のパイプは議論用と使い分けていました。
キャラバッシュ型パイプはホームズ役の役者、自らもホームズ劇の台本を書いた舞台俳優ウイリアム・ジレットが使い出しました。ホームズが活躍した当時にはキャラバッシュ型パイプはなかったそうです。

・ホームズのトレードマークの服装
彼が使った帽子がdeer staking(鹿追い)の時にかぶる「鹿撃ち帽」とされていますが、「ボスコム谷の惨劇」で列車で現場に向かうホームズの挿絵にシドニー・パジェット自身が愛用していたディアストーカーを描きました。ハンチング帽は鳥打帽子と似ていますが異なるものらしい。「白銀号事件」ではパデイントン駅から列車で出かけるとき、耳あて付き旅行帽をかぶっていました。ヴィクトリア朝時代には、町でディアストーカーを被ることはなかったそうです。
インバネス・コートもシドニー・パジェットの創作で、今やホームズのトレードマークになっています。

・コカイン
ホームズとコカインは「ボヘミヤの醜聞」「唇のねじれた男」「オレンジの種5つ」「黄色い顔」「四つのサイン」では皮下注射をするホームズが細かく描写され、「7パセントの溶液だ、君もやってみるかね?・・・副作用などたいしたことないさ」と述べています。

シャロック・ホームズの「悪魔の足」、「這う男」、「まだら紐」などは毒物、薬物の話になっています。

*コカの葉は南米ペルー近くで使われていた興奮剤。16世紀にスペインがヨーロッパに紹介。
1880年アメリカの雑誌「治療ガゼット」にコカの作用を報告。1884年にフロイトは「治療ガゼッ」を読みコカに興味を持った。フロイト自身試してみると、不機嫌を愉快にし、仕事や勉強のエネルギーを奪わず、胃痛、嘔吐に役立つ「魔法の薬」と称賛しています。モルヒネの依存症をコカインはなくすことが出来ると述べた。麻酔作用のあるしか述べず。フロイトの友人で当時眼科医のインターンをしていたカール・コーラーが、局所麻酔剤としてコカインを使用して成功し発表します。
フロイトの友人エルンスト・フォン・フライシュルは病理解剖学の研究中に感染し、右の親指を切断、その後神経腫の増殖が続いて、繰り返し手術を受けなければならなくなった。結局痛みは耐えられぬほどになり、モルヒネに頼って中毒にかかってしまいました。この中毒から逃れようという努力の最中にフロイトはモルヒネをコカインにかえたらどうかと提案した。その後彼はコカインの犠牲者となり荒廃状態になり、フロイトが付き添うもコカインで彼を害してしまいました。1886年モルヒネ依存症のエルレンマイアーの論文。「アヘンとアルコールに次いでコカインは人類に対する第三の罰だ」といった。フロイトはモルヒネ依存症にコカインを利用することをやめた。
1887年、ジョージア州コロンバスの薬剤師ジョン・スティス・ベムバートンがコカの葉の抽出物を入れた「コカ・コーラ」を売り出した。頭痛を癒し、疲れを取り除き、神経を落ち着ける飲み物として主に薬用として飲まれた。モルヒネやアヘンの中毒の治療にも使えると宣伝されていた。その後、世界各地からコカインの常習性と中毒性が報告され、危険物質との認識が広まった。


・ホームズは情報収集のため、ロンドンのイレギューラーズ(非正規隊員:浮浪少年たち)に情報を収集させます。
ホームズは変装が得意で、変装は怪人二十面相に挑む明智小五郎に受け継がれます。

「最後の挨拶」の作品の中で1914年にドイツがロシア、フランスに宣戦布告。「ガレージいっぱいの車、天下プラグが海軍暗号となっています。」日本の大正時代の作品です。1914年(大正3年)~1918年(大正7年)一次世界大戦がホームズの作品にも書かれています。

・当時のイギリスの主な出来事
1851年 ロンドン万博。
少し過剰で上品な装飾のヴィクトリア時代、ボーア(オランダ系南アフリカ人)戦争、アフガニスタン戦争(ワトソン)、
阿片戦争、インド大反乱と統治(四つの署名)、西アフリカゴールド・コーストでのアシャンティ族との戦い、
ズールー族(南アフリカズール~王国)との戦い、マフディの反乱(エジプトに支配されていたスーダンの反乱)など。
1908年 ロンドンオリンピック(1908年4月27日から10月31日) 日本は不参加でした。

(シャーロック・ホームズの事件の傾向)
ホームズ作品には植民地で成功をおさめたり、財を成したりして、イギリスにもどり事件に巻き込まれるというケースがあります。
また、イギリスの国内犯罪で捕まり、植民地に送られ当地で事件に巻き込まれる場合もあります。

移動手段は、馬車⇒蒸気機関車⇒地下鉄⇒電車となっていきます。
明かりも、ろうそく⇒ガス灯⇒電気へと変わっていく時代です。

漱石が行ったトラファルガー広場やナショナルギャラリーには、当時ラファエロ前派、ターナーなどの名画が展示されていて鑑賞しました。ホームズの時代には、ディケンズ、ワイルド、エリオット、詩人(ブラウニング、テニスン)などを輩出しています。ものの本によれば、彼らの作品中にもホームズ作品から引用されている箇所があるといいます。

●著者(コナン・ドイル)について

エデイバラ大学ジョセフ・ベル教授   

外来助手になった、コナン・ドイル(~1930、71歳没)

*ある高地の地方の兵隊について、ベル博士は日焼けしていることを根拠に最近バルバドスにいたのだと断言しました。彼は象皮症に苦しんでいました。この病気は英国よりも西インド地方にありふれているもので、彼は島の高地に連帯は駐屯していたことを指し示しました。象皮病はバルバドスを想起させる。(バルバドスの脚)として知られていました。

*エジンバラ大のベル教授は無愛想かつ非社交的な高位から学生を鷲のように襲い掛かったといいます。ドイルは「ホームズ」に教授の容貌を与えようと努め、「鷲のような鼻梁」と小さな灰色の眼、寡黙にして思案からベル教授の針金のような硬い灰色の毛髪の代わりに、こめかみのところで髪が上に後退していると改善しました。

シャーロックという名前は、ドイルがクリケットの対戦チームにいる好敵手からとりました。
アーサ~・コナン・ドイルは1859年5月22日、両親の第三子(長男)として誕生します。名前のコナンはパリ在住のジャーナリストの祖父マイケル・コナンにちなんでいます。チャールズというミドルネームがあったとドイルは信じていましたが記録にはありません。

アーサ~・コナン・ドイルは7歳の時、母の友人、スコットランドの姉妹、ミス・バートンに預けられ、ニューイントン・アカデミーに通います。ドイル4歳の時、父はアルコール依存症のため家から離れました。9歳でイングランド北部ランカシャーにあるイエズス会の厳しい寄宿舎ホッダー校に入り、2年後上級のストニーハースト神学校(イエズス会)に進んでいます。ストニーハースト神学校は厳しく清貧な生活で、将来の宣教師を育成していました。正義と反骨精神のドイルには、規律正しいくあまりに厳格な寮生活をよくは思っていなかったようです。「学んだ、ラテン語、ギリシャ語、数学などは、人生にほとんど役に立たなかった」と述べています。

ドイル家と親しかった、ミス・メアリー・バートンはエジンバラ郊外のリバトン・バンク・ハウス(1780年建築)を1884年に購入、ここで甥、姪なども預かり教育しました。メアリーの兄、ジョン・ヒル・バートンの息子ウィリアム・K・バートンも預けられ、ドイルの終生の友となります。

*ウィリアム・K・バートンは明治、1887年東京帝国大学教諭として、日本の上下水道の近代化に貢献しました。妻は日本人。ドイルの作品の中の「日本のたんす」や「高名な依頼人」ではグルーナー男爵の屋敷に乗り込んだワトソンに、日本人でも答えにくい質問を受けます。これらの事柄がバートンとの付き合いから得た知識ではないかと思われます。ドイルがえがいた日本の小説「ジェランドの航海」が、「名探偵ホームズとドイル」河村幹夫著に紹介されています。1860年代の横浜を舞台にした輸出商の話です。

ドイルは幼い時からバートン家に引き取られ、寄宿学校に通い、エジンバラ大学医学部に進み、外科のベル教授が患者を診ると、出身地やどこが悪いか言い当てて学生を驚かせました。ドイルは大学に入ってから、家族と暮らし始めます。ドイルが3年生の時、父のアルコール依存症が悪化して、ドイルの母とエジンバラ大学の医師バライアン・チャチル・ウォーラー(裕福な家の出で、ドイルの母のところに下宿していた)とで精神病院に入院させました。医師バライアン・チャチル・ウォーラーはエジンバラ大学で、病院の派閥争いに敗れ、1882年、出身地メイソンギル村に住んでいました。ドイルの母メアリーも幼い子3人を連れ、その地に35年住みます。医師バライアン・チャチル・ウォーラーは結婚して、子ができましたが若くして他界しています。

16歳の時、リチャード・ドイル(ディッキ)(パンチ誌の表紙のデザイナー)の伯父のもとクリスマス休暇を過ごしています。倫敦塔、マダム・タッソウー蝋人形館(恐怖の部屋)、アーラジンの芝居「ハムッレト」を観劇。その後1年間、オーストリアのフェルトキルヒにおけるイエズス会の寮に入学します。

*ドイルの父チャールズ・アルタモント・ドイルはジェレ・ドイルの一番下の息子でした。ジェレ・ドイルは「HB」のペンネームを持つ風刺漫画家でした。チャルズ・アルタモント・ドイルは兄のリチャード・ドイル(パンチ誌の表紙のデザイナー)より絵は劣り、妖精や幻想的なものを描いていました。

ドイル一家はアイルランドカトリックの教徒でした。チャールズ・アルタモント・ドイルはロンドンを離れ、エジンバラで職(エジンバラ市の工務課建設事務所の設計技師)を得て、下宿の女将の娘メアリー・フォークと結婚します。ドイルは母メアリーに幼い時から騎士道精神をたたき込まれます。


ドイルは大学の最終学年のとき、友人に変わってアルバイトで、捕鯨船ホープ号の船医となります。北極地方に7ヵ月いました。グリーンランドの空気はこれまで吸った空気より良かったようです。卒業して、医学士{MD}となります。ジェフィールドのリチャードソン医師の元に3週間、次にロンドンで軍隊に入ろうとしました。その次は、シロップシャー州ライドン・オブ・ジ・イレジン・タウンズのエリオット医師、バミンガムのホーア医師と助手を務める。

二回目の船医となり、蒸気船マユンバ号で少数の乗客と多数の荷物を積んで西アフリカへ出航しますがギニア海岸沖で熱病にかかります。帰国後、プリマスのバッド(ジョージ・ターナヴィン・バッド)医師に雇われます。

コナン・ドイルはウィーン大学の眼科学の名誉教授、フックス先生に眼科を学びに出かけています。彼は約1年ドイツの寄宿舎で過ごしたことがあるので、ドイツ語が出来ると思っていたが、6か月の勉強に、専門用語がつかわれる専門講義には太刀打ちできなかった。

息子のアレイン・キングマリー1892年誕生。その後ドイルの妻ルイーズの調子は良くありませんでした。結核の療養にスイスに休暇に出かけダボスのクルハウス・ホテル落ち着きます。1993年帰国した妻が喀血します。また療養旅行にエジプトにも行っています。2回目の妊娠、子どもは妻の両親、姉妹たちに預け、ダボスで療養します。

父チャールズの死。妹コーニーの結婚式。ドイルはホームズシリーズを終わらせようとします。ドイツのマイリンゲンの町はずれにあるライヘンバッハの滝をその舞台に選んでいます。

ドイルがノルウェイーに旅行した時、「スキー」「ハンセン病」を学んで帰ります。当時スキーはノルウェイーにしかなく、学んだノルウェイー式クロスカントリーをスイスに紹介しています。ダボス市にはドイルの功績をたたえる碑が立っています。ノルウェイーのアウルマン・ハンセン医師はライ菌を発見します。ドイルの小説「白面の騎士」にその話が出てきます。

ブライアン・チャールズ・ウォーラーはドイルが学生だったとき、大学にとどまり医学博士を目指して勉強し、講師の仕事を得ようとしていた医師です。ウォーラーは1877年ヨークシャーのメイメンギルに一族の土地を相続します。彼は借地人から、不愉快な「自惚れ屋」とみなされます。ウォーラーはドイルより6歳年上、ドイルの父が退職してから6年間ドイル家の家賃を払ってくれた人です。ドイルの眼には、郷士一族の息子でした。ホームズの知性ゆえの尊大さは、ことばに「ハッ!」「フン!」を取り混ぜる癖が作品にみられるのはウォーラーに影響されています。ウォーラーは大学を去り、故郷のメイソンギルに戻ってきます。メアリ・ドイルと幼い姉妹もウォーラーの隣の家に住みます。

作品にも、同様のテーマが出てきます。「花婿失踪事件」のメアリ・サザランドと結婚しようとしたホズマ・エンジェルは、母が15歳年下のウィンディバンクと再婚した時、メアリ・サザランドはいい気持ちがしなかったと述べています。その義理の父が失踪した花婿でした。ドイルの母より15歳年下のウォーラーという類似があります。

酒にまつわる話では、「四つの署名」でワトソンの兄の形見の時計から「兄さんは不精な人、ひどく不精でずぼらな人でした。いい前途を持ちながら、いくたびか機会を逸し、時には金まわりのいいときもありましたが、たいていは貧乏で、おしまいには酒をのむようになって、亡くなりました。酒癖の悪いのは「ブラック・ピーター」のピーター・ケアリー、「覆面の下宿人」ロンダ夫人は酒乱の夫レオナルドを殺すためライオンを解き放つ。「アビ農園」の主人、サー・ユースタス・ブラックンストールは酒が入ると暴力をふるう夫で殺害されました。 メアリ・ブラックンストール夫人は酒乱の夫に疲れ果てていました。

ドイルの母は彼の気質をよく知っているので、戦争に行ったり、ホームズをラインバッハの滝で殺したりすることをいさめたり、色々とアドバイスをしています。

1901年ドイルの友人アーチー・ラングマンが裕福な父から財産援助で医療部隊を組織します。コナンもブルームフォンティン臨時病院に3か月行きます。ほとんどが糞便による感染症でした。ドイルは戦争支持を訴え、自由統一党より選挙に出ますが落選します。ボーア戦争のゲリラ化、焦土作戦、強制収容所など、イギリスの残虐行為の批判が高まります。この戦いが英国政府に大陸諸国の新聞から残酷だと非難されたのを擁護するパンフレットを執筆します。母も非難していました。1902年エドワード7世が王座に就き、ドイルは愛国的努力を評価されてナイトの称号を授与されます。

妻ルイーズの長年の結核病の療養生活、父の死亡、ドイルは「心霊研究協会会報」の予約購読を申し込みます。

ドイルは弟イネスとアメリカへ講演旅行に行きます。帰国後、再度ルイーズを連れスイス、エジプトへ行きます。ハインドヘッドに家を建て、ここで、ジェン・レッキーと出会います。1906年ルイーズ死亡。1年後ウエストミンスターのセント・マーガレット教会でジェーンと結婚します。

ドイルの子ども達
最初の妻ルイーズ・ホーキンズとの間に2人、メアリー・ルイーズ(1889年1月28日出生、1976年6月12日死去)との間に長男アーサー・アレン・キングズリー(キングズリーとして知られている)(1892年11月15日出生、1918年10月28日戦死)妻ルイーズ49歳で亡くなる。1906年長い闘病生活の末亡くなりました。長女メアリーは「父のやつれた顔から涙が流れ落ちていました。お母さんの小さな白い手は、父の大きな手の中に包み込まれていました」。と後に語っています。長女メアリーは、母の最期の春、妻たちの中には自分の死後も、夫が妻のことをずっと記憶し続けてほしいと願う人もいるようだが・・・私はそれは非常に間違った考え方だと思っています。なぜなら先立つ妻が思うただ一つのことは愛する夫の幸せのはずだからです。だからあなたのお父さんが再婚するとしてもショックを受けたり、驚いたりしてはいけない。なぜならその再婚に対し私は理解しており植福しているからです。

2番目の妻ジーン・レッキーとの間に3人、次男デニス・パーシー・スチュアート(1909年3月17日出生、1955年3月9日死去)、三男エイドリアン・マルコム(1919年11月19日出生、1970年6月3日死去)、ジーン・リーナ・アネット(1912年12月21日出生、1997年11月18日死去)がいました。

長男キングズリーは、1916年第一次世界大戦のソンムの戦い(フランス北部ソンム河畔の英仏対独の戦い)の初日に負傷して除隊したあと、1918年にスペイン風邪の大流行で死去します。コナン・ドイルは、キングズリーの死に打ちひしがれて、これが彼を心霊主義の世界に傾倒するきっかけになったといわれています。コナン・ドイルの子供たちは、心霊主義への関心を継続します。

長女メアリーは、ロンドンで心霊主義関連の本屋を経営します。彼女は1976年に未婚のまま死去します。

デニスとエイドリアンは、心霊主義についての講演を行い、啓蒙運動を続けます。そしてコナン・ドイル地所を運営します。
デニスは、グルジアの王女ニーナ・ムディヴァニと結婚し、世界を旅行してまわります。彼は1955年にインドを訪問中に比較的若く死去します。エイドリアンは、アンナ・アンダーソンと結婚し、スイスにコナン・ドイル財団を設立する前、最初にタンジールに住みました。彼は財団の運営に死ぬまでかかわり、1970年に死去しました。彼は、ジョン・ディクソン・カーと合作で「シャーロック・ホームズの功績」(短編集)を書いたことでも知られています。

一番下の娘リーナ・ジーンは、長い空軍のキャリアの後に1963年に英国女子空軍司令官になります。これによりデイム(男性のナイトに相当)に叙されます。彼女は晩婚で、20歳年上の空軍副元帥ジェフリー・ブロメットと結婚します。彼女は1997年85歳で死去しました。アーサー・コナン・ドイルの子供たちには子供はいませんでしたので、直系の子孫はいません。

・ドイルの予感
1911年、ドイツ帝国海軍を統括していたヘンリー公が主催した「ヘンリー公競技」自動車レースが、英国、ドイツにまたがって開催されました。自動車の耐久性や性能を競うレースで、英国、ドイツから45人が参加し、一日約150マイル走らせ、得点を競うもので、ドイツのホンブルグから北ドイツを走り、船で英国のサウスハンプトンに着き、エジンバラへ北上し、ロンドンまで帰るレースでした。ドイルは16馬力の小型ランドー型自動車に妻ジーンを乗せ参加しました。英国の士官がドイツ参加者の車に、ドイツ士官が英国人の車に同乗します。ドイルはそこに偵察を感じ取りました。

1913年2月号「フォトナイトリー・レヴェー」誌に「大英帝国と次の戦争」を発表しました。1904年7月号に「ストランド」に「某国の潜水艦シリウスの航海日誌」を掲載しました。この8月にドイツはベルギーを攻撃。翌年、英国はドイツの海上封鎖を発表、ドイツはUボートで英国商船ルシタニア号沈没させました。ドイルは55歳で一兵卒として参加します。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが戦死、ジーンの女友達でドイル一家と同居していたリリー・ローダ=シモンズの3人兄弟が戦死、ドイルの妹コニーとウイリアム・ホーナングの一人息子オスカー・ホーナング戦死、ドイルの妹ロティの夫、レスリー・オルダレ大尉戦死。

戦死した、妻ジーンの弟マルコム・レッキーからドイルはメッセージを受け取りました。ドイルはアイルランドで生まれ育った祖先のケルト人の血が流れていました。彼らが長い間かって実在のイメージを作り上げてきた妖精たちと共生してきました。ケルトの神話には多くの妖精が登場します。ドイルは長年かけて心霊主義に傾いていったようです。

・ドイルの心霊主義
カトリック精神の学校を卒嬢して、ドイルは大学生の頃は確信的な唯物論者でした。神秘的なことや合理的に説明できないこと強い関心を持っていました。大学の在学中、北極海の捕鯨船でアルバイトしたした時の体験はドイルに感動を与えたようです。サウスシーで田舎医者の頃には科学的好奇心で、世間で言っている超能力的なからくりを暴こうと、友人たちと霊媒実験をおこなったり、本を読み漁っていました。

スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの「ティンカーベルとピーター・パン」などの作品が生まれる土壌がイギリスのスコットランドにはあったようです。魔法使いなどイギリスのファンタジーはアーサー王物語から出てきます。

*妖精写真;イングランド、ヨークシャー地方のコッティグリー村で妖精写真を十代の少女が撮影します。神知学者のエドワード・ガードナーが知り、写真をドイルに見せました。「ストランド」誌1920年12月号に、写真と少女にまつわる話を掲載します。

*「ハイズヴィル事件」;ナイヤガラの滝に近いハイズヴィル村のフォックス夫妻と2人の娘、1848年の霊的事件。1904年のこのお化け屋敷とよばれていた、フォックス家の廃屋の地下の壁から死体発見の事件。


*「エダルジ事件」;1903年イギリスの中西部の村で、放牧されていた牛馬が何者かにより腹を裂かれて殺害された事件が頻発しました。地元警察はインド系の弁護士ジョージ・エダルジを逮捕しました。彼は7年重労働の懲役刑を受けた。1907年に釈放されたとき、ドイルは彼と会い、冤罪であると確信しました。

・「レイスター事件」;1908年1スコットランド・グラスゴーでマリオン・ギルクリストという老女がダイヤモンドのブローチを奪われて撲殺されました。警察が容疑者としたのはユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターでした。スレイターはギャンブルや犯罪まがいのことに手を染めてきた素行の悪い人物だったうえ、この直前にダイヤモンドのブローチを質に入れており、しかも偽名で船に乗ってニューヨークに渡航していたため、一見して疑わしい人物でした。ニューヨークからイギリス帰国、死刑判決を受けます。レスターに同情した署名で、死刑執行2日前、終身刑になります。ドイルは再審請求を繰り返します。警察が証人にわいろを送っていたことがわかり、イギリス政府は事態をおさめるためレスターを釈放します。その後裁判で無罪となりました。

・情熱と正義と行動の人ドイルは、色々な問題に挑戦して、論争したり、本を書いたり、講演をおこなったり活躍しました。

●1887年に「緋色の研究」を発表して、ドイルの書いた「シャーロック・ホームズ」が世に出ました。
1854年1月6日にシャーロックは生まれたとされています。(シャーロッキアン団体ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)が創立される前年の1933年に「最後の挨拶」の作中から得たらしい。1852年8月7日ワトソン誕生となっています。)

beeton's christmas annual(ビートンクリスマス年鑑) 1887・11「緋色の研究」と題した探偵小説が掲載されました。

単行本は、ウォード・ロック社から1888年7月にサー・アーサーの父シャールズ・ドイルの挿絵で発売されました。
単行本第二版はジョージ・ハッチンソンの挿絵入りで1889年出版。
アメリカで単行本が初めて出たのは、1890年J・B・リピンコット社からです。

 シャールズ・ドイルの挿絵


シドニー・パジェットとアメリカ人フレデリック・ドア・スチールの挿絵
*1899年5月舞台俳優ウイリアム・ジレットはシドニー・パジットのイラストを参考にしてディアストーカー(鹿撃ち帽)とアルスターコート(一説にはインヴァネス・コート)を着用、この姿でコナン・ドイルと会いアメリカの観客にうけるような劇の手直しするように許可を求めました。スチールの挿絵はジレットを参考にして、小道具の曲がったパイプもジレットとスチールの産物。現在のキャラバシュ・パイプです。吸い口の大きく曲がった瓢箪型パイプ(パイプを咥えたまま長台詞をしゃべるのに都合が良かったからだとされている)
・舞台俳優ウイリアム・ジレットのスタイルがホームズの今あるイメージをつくりました。

3年後(1890年2月)「四つの署名」がアメリカ雑誌(リピンコッツ・マンスリー・マガジン』:米・フィラデルフィアの雑誌)に乗り、挿絵はハーバート・デンマンでした。イギリスの主要な雑誌に掲載されました。
56ある短編の最初に発表された、ドイル三作目の作品が「ボヘミヤの醜聞」です。

strand magazine

56ある短編小説のうち最初に発表された作品が『ストランド・マガジン』1891年7号に「ボヘミヤの醜聞」が掲載されました。挿絵画家のシドニー・パジェントが「ボスコム谷の惨劇」の挿絵に描かれたホームズの独特のスタイル(外套、鹿討ち帽、パイプ、虫眼鏡、外套)を着た挿絵を描いました。この帽子にドイルが「シルバー・プレイス」でホームズが耳おおい付の旅行帽をかぶってという、記述を書き込んでいます。

*シドニー・パジェットの挿絵は、「ボヘミヤの醜聞」「赤毛組合」、・・・「最後の事件」まで。「バスカヴィル家の呪い」「空家の冒険」から「第二の染み」まで。1908年シドニー・パジェットが亡くなります。弟のウォルター・パジェットが「瀕死の探偵」の挿絵を書きました。弟には「ロビンソン・クルーソー」「宝島」などの作品があります。 

*挿絵
シドニー・エドワード・パジェットは9人兄弟の5番目で父はロンドンの聖ジェイムズ教会および聖ジョン教会で教区会書記をやっていたロバート・パジェットです。1881年、パジェットは王立芸術学院に入学します。ここで彼は建築学専攻のアルフレッド・モリス・バトラー(Alfred Morris Butler)と友人になりました。後にこの人物はワトスン博士の絵のモデルとなりました。パジェットは晩年の数年間、病気で胸部の痛みに苦しめられ、1908年1月28日に48歳の若さで没しました。1891年7月から、ストランド・マガジンに掲載されたホームズシリーズの挿絵を描きました。

兄のシドニー・エドワード・パジェットは、弟の作品「宝島」「ロビンソン・クルーソー」の挿絵画家がウォルター・パジェットで、ストランド・マガジンの編集長は弟のウォルターにホームズシリーズの挿絵を頼んでいます。編集者の手紙にミドルネームが無く、兄のシドニー・エドワード・パジェットがホームズシリーズの挿絵を書くことになりました。シドニーはホームズをハンサムな弟をモデルにしてホームズを描きました。

1892年に発表された12編の短編集が「シャーロック・ホームズの冒険」として単行本になりました。
これから、また12編の単行本を1892年の12月から書き始め、1893年12月号の「最後の挨拶」でホームズを滝に落としてドイルはホームズを死んだことにしました。

顔をななめ下に向けて、考えながらパイプをくゆらせ、突然考えがひらめき、行動を起こしたり、話を聞いているようで、自らの考えに没頭していたり、「ハ!」と話の最初に感嘆符が付くセリフなど、ホームズ独特の言い回し、これらは、テレビ、映画などで目にすることばや行動は、ホームズをより魅力的にしています。「初歩的だよ、ワトスン君」という本来原作にはないホームズの決め台詞も、俳優ジレットによって作り出されました。ベイジル・ラスボーンが多用したことで定着したといいます。

ホームズは「最後の挨拶」で死んだことになりましたが、ドイルが、ボーア戦争から戻り、友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞き、1901年8月から「バスカヴィル家の犬」を書きます。しかし、ホームは死んだことになっていたので、話をそれ以前に設定しました。

1903年10月からシリーズ一作目を「空家の冒険」でホームズは生きていたとしました。その後13篇は「シャロック・ホームズの生還」として、1905年に単行本になりました。

ドイルのシャロック・ホームズの最後の作品は、1927年に「ショスコム オールドプレス」で、全作品(長編四作、短編五十六作)がマガジンに掲載されました。

時代を超えて人気があるのは、読んでいて心に残るフレィズ。何度読んでも飽きないストーリー。ホームズとワトソンの掛け合いの良さ。事件がないと元気がなく、興味を引く事件がホームズの生きがいになっています。ホームズ独特のキャラクター、事件に対する姿勢は意欲的で、寝食を忘れて取り組みます。観察し推理する面白さを得られる内容と、ホームズの推理の仕方が魅力的です。事件結果が、温情的です。繁栄したヴィクトリア時代の英国の雰囲気が物語に与える印象もよかったのではないでしょうか。

事件の推理には、出来事における残された正確な事実の把握。現場、状況などの詳細な観察。ホームズは常人が見過ごしてしまうような点にも注意がいく観察眼があります。クライアントが入ってきたとき、仕草、服装、靴についた泥など色々な情報から正確に人物を言い当てる能力があるのです。(我輩はシャーロック・ホームズです。柳広司;作品ではホームズを気取った漱石が的外れな人物描写をしてしまうという、パロディになっています。)

情報収集に労力を惜しまず、物事を観察して、遺留物、血液、凶器、靴跡、植物、泥、細かなほこりなど、虫眼鏡で鋭く観察、毒物の分析などで得られた、情報の中で、事件に役立つものか、そうでないものかを選別します。今回の事件は、他の事件とどのように違うのか、事件の特徴を把握します。今まで培った過去の犯罪歴の知識、実験などで得られている知識、事件の解決に必要な技術を体現して身に着けます。

ホームズはマクドナルド警部に次のような忠告をしています。 ... それは三か月間家に閉じこもって、一日十二時間、犯罪記録を読むことです。歴史は繰り返すといいます。とアドバイスしています。(恐怖の谷)これらの事柄を参考に考えられる数個の仮説(推理)をたてます。

「確立を秤にかけて、最も確からしいものを選ぶ」、「想像力を科学的に用いる」とホームズは述べでいます。しかし、どんな時でもほかの可能性を考えて、その備えもしておくべきだとしています。結論が早く出てしまう時には、自分自身を疑ってみるとホームズは述べています。現場での状況から当然、起きうるべきことが起きない場合も事件解決のヒントとなります。

あらゆる可能性を考えたうえで、今まで蓄えた事件の事実と、よく整理されたホームズの知識で慎重にもっとも上手く説明できる結論へと導き出していきます。

ワトソンやスコットランド・ヤードの警部は起こった事実から早期に結論を導くのに対してホームズはゆっくりと慎重に多くの材料から事実を導きだし、解決に必要で足りない事柄について更に捜査を進め、ロンドンの少年たちや犬などを捜査に加え、ホームズの変装も役立てて、解決へと導きます。

相棒ワトソンとの掛け合いの良さ、ホームズの奇行、翻弄されるワトソン、最後の推理が確定し、犯行の動機が明かされます。シャーロック・ホームズ物語は何度でも読み返すと新たな発見があります。子どもから大人まで、あらゆる時代と世代に読み継がれていくでしょう。

シャロック・ホームズ物語は映画やテレビで放送されています、1900年頃のイギリスの馬車、鉄道、地下鉄、車、自転車、ガス灯、電報、電話、新聞、服装、ヴィクトリア時代の装飾、町のたたずまいなどの雰囲気が作品に染みこんでいます。

顕著に出てくるのは、それより少しのちの時代第一次大戦以降のイギリスの時代(1920~1930年代)を描いた、「名探偵エルキュール・ポアロ」はシャロック・ホームズでのワトソン役のヘイスティングス大尉、ハドソン夫人がミス・マーブルとよく似ています。漱石には余りいい印象を与えなかったイギリスですが。当時の映画、テレビで見るイギリスは風景、建物など、良く整理され、緑が多く、田舎でも道が比較的整備されて、川も船も箱庭のように見えます。

シャロック・ホームズの物語に出てくるお金
ヴィクトリア時代の1ポンドは一万円から五万円(2万4千円ぐらい)
 1ポンド=20シリング=24,000円
 1ギニー=1ポンド+1シリング=21シリング=25,200円
 1シリング=12ペンス(ペニーの複数系)=1,200円
 1ペニー=100円

・モイドール金貨:moidore(ポルトガルの)〔1640~1732年に鋳造されたものだが、その後も西ヨーロッパや西インド諸島で長く使われ、18世紀にはアイルランドやイギリス西部で使用された。〕

・ソブリン金貨:1ポンド金貨の名称。1816~1917年国内流通用貨幣として発行。1489年に発行された20シリング(1ポンド)金貨に、当時の国王ヘンリー7世の肖像が描かれていたので、ソブリン(君主)と呼ばれます。

http://homepage2.nifty.com/shworld/18_a/10.html
 ①ホームズ物語に表われた、「疾病や症状について」詳しく説明されています。
 ②身体の部位に関する用語
 ③その他の専門用語
 ④事件別の疾病と症状及び専門用語

*家事使用人(イギリス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E4%BA%8B%E4%BD%BF%E7%94%A8%E4%BA%BA
上記サイトにあるように、中流階級でも使用人は家族として住居を一緒にしていたようです。中流階級の女性の仕事として「家庭教師」は数少ない働き口でした。

「緋色の研究」世の人は私をあざ笑うが、わたしは家で金貨を眺めて、喜びとします。クインタス・ホラチウス・フラカス(古代アテナイ)
「四つの署名」ベーカー外非正規隊で、
ワトソンが「ベーカー街で風呂に入り全部着替えると、私は素晴らしくさっぱりとした気分になった。」
「人間が偉大なのは、自分が弱くてつまらぬ存在だと云う事をすることが出来るからだ」「リヒター思想の糧を与えてくれる」ヨハン・パウル・フリードリッヒ・リヒター
「フランシス・カーファクス姫の失踪」1902年7月1日に帰ってきたワトソンに対して「何だってまた、だるくなるうえに高価なトルコ風呂なんかへいったんだ? イギリス風のにすれば、からだが引きしまって元気がでるのに!」とホームズがいいます。
「高名な依頼人」1902年9月3日では「ホームズも私も、トルコ風呂ときたら目のないほうでした。」と話が変わる。

・「四つの署名」で「人は自分の理解できないことを嘲笑するものだ」(ゲーテ)「自然がお前をたた一人の人間しか作らなかったのは残念だ。立派な人にも大悪漢にもなれる素質があったのに」

・「赤毛組合」で、「人間はむなしいものだ、仕事だけが残るのだ」ギュスターヴ・フローベール

・「花婿失踪事件」で、「虎児を捕える者には危険がある。女性から幻影を奪うものにも危険があるというペルシャの古いことわざがあるが、ペルシャの賢人はホラチウスよりも利口ものだね」

・「花嫁失踪事件」で、「ミルクの中から鱒が出てきたような場合にはね」ヘンリー・デイビッド・ソロー

・「空家の冒険」で、「悲しみには、仕事が一番の薬だよ」トーマス・カーライル モラン大佐を捕えたとき。「旅の終わりは、恋人のめぐりあい」十二夜 

「レディ・フランシス・カーファックスの失踪」で、「正義のための喧嘩なら力三倍」ヘンリー7世

「サセックスの吸血鬼」で、「人はたいてい、とりあえずの仮説を立てておいて、時間がたって情報がふえるにつれそれを改めていこうとします。よくないくせですよ。」

「三破風館」で、「ぼくは法律をだいじにするほうじゃないが、正義の力は及ぶかぎり示す」

「白面の騎士」で、「見えているものはあなたがご覧のものと変わりませんが、ぼくは目に入ったものによく注意するよう訓練を積んでいるんですよ」

Ⅰ(長編)
『緋色の研究』A Study in Scarlet (1887.12発表)事件は1881年3月4日に発生~3月7日解決
「ビートンのクリスマス年鑑」二つの挿絵はD・H・フリストン。1888年ウオード・ロック社から単行本「緋色の研究」がでる。挿絵はコナン・ドイルの父、アルコール中毒で入院中のチャールズ・ドイルが挿画を描がいています。

*ホームズの容姿、体格は痩身で身長は少なくとも6フィート(約183センチメートル)以上、鷲鼻で角張った顎が目立つ。性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと、寝食を忘れて事件にもめり込む。ホームズが一番生き生きするときです。反対に兄のマイクロフト・ホームズは、シャーロックよりも鋭敏な頭脳を持つが、捜査に興味がない為に探偵にはならなかった。

・ヴァイオリンの演奏にも長けており、ストラディヴァリ製のヴァイオリンを所有しています。トットナム・コート・ロードのユダヤ人の質屋で、わずか55シリング(6万6000円あまり)で購入。実際は500ギニー(1260万円)らしい。
・ボクシングはプロ級の腕前。化学実験を趣味とします。ヘビースモーカー。
・事件に興味がわくと、情熱的で根気強く事件解決するが、その後、反動で無気力になってしまう。
・事件がないと退屈して拳銃で壁に発砲して弾痕で実験。
・依頼者が入ってくると、人物像を微にいり細を穿つ説明をして、ワトソンを驚かす。
・コカインやモルヒネを使う習慣があった。パイプを愛用。
*1893年にエフェドリンが合成され、第二次大戦中、疲労回復などの目的に使用された。ヒロポンは「除倦覺醒劑」として日本では普通に薬局などで販売されていました。(当時の新聞には広告も掲載されていました。「疲労回復にヒロポン!」)

*陸軍の軍医だったジョン・ワトソンは、インド駐留後、アフガニスタン戦争が勃発。マイワンドの戦いで、ジェザイル弾を肩に受け負傷、送還され、一日11シリング6ペンスでロンドンでくすぶる日々。戦場で疲れ果てた彼は、クライテリオン・バーで友人(スタンフォード)に会い、ホルボーンで昼食をとり、誘われるがまま、ルームシェアを希望しホームズと出会います。

トーマス・カーライル(漱石の作品「カーライル博物館」)をワトソンが話の引き合いに出すと、ホームズは何の人で、何をなした人かと聞く。地球が太陽の周りをまわっている。太陽系の配置ぐらいと思うが、知らないと微笑む。無駄な情報。ワトソンがホームズよりも2歳年上。1887年11月「ビートンのクリスマス年刊」「緋色の研究」当時ホームズ27歳、ワトソン29歳
ホームズが下宿している、女主人ハドソン夫人はホームズに欠かせない人物として描かれます。

スタンフォードにワトソン博士は初めてシャロック・ホームズを紹介されます。
「はじめまして」彼は、常識を超えた握力で私の手を握りしめながら、心を込めてこう言いました。「見たところ、あなたはアフガニスタンに行ったことがありますね」「いったいどうやって分かったんですか」私は驚いて尋ねた。

共同生活を始めたとき、ホームズのところにスコットランド・ヤードのグレグスン刑事から殺人事件が発生したとの手紙が届き、ホームズはワトソンを連れて現場に向かう。グレグスン刑事とレストレイド刑事は難事件にお手上げの様子です。殺されていたのは立派な服装の中年男で、イーノック・ドレッバーの名刺を持っており、壁には RACHE (ラッヘ:ドイツ語で復讐の意)と血で書かれた文字があって、女の結婚指輪が落ちていました。

ブリクストンロードの空家で見つかった謎の死体。RACHE と壁に血で書かれていました。死体から金の結婚指輪が出てきます。死体はクリーブランドのノーイック・ドレバー氏で彼は秘書のスタンガーソン氏とともに大陸旅行をして、倫敦に滞在していました。

更に秘書のスタンガーソン氏も刺殺されました。背中にはRACHE と血で書かれていました。テーブルには丸薬が二個入った経木の軟膏の箱が窓の桟の上にありました。牛乳配達の少年が殺害された部屋から出てくる男を目撃しています。ベーカー街分隊を使って、上手くホームズは逮捕できるのでしょうか?

  「無色の人生の糸を殺人という緋色の糸が通っている。僕らの債務はそれをほぐすことだ。それを分離し、隅から隅まで
   正体を明かすことだ。」

*マウンテンメドウの虐殺
ジョセフ・スミス(聖徒イエスキリスト教会、モルモン教の創始者、彼は天使より授かったとされる金版の書を元に、「教典であるモルモン書」を著しています。)はフリーメーソンとのかかわりを深め、「死者のバプテスマ」、「エンダウメント」を秘密の儀礼を導入します。多妻婚でした。これを暴露した新聞社を襲撃、破壊した罪で告発され、武装した暴徒により刑務所で殺されます。
ジョセフ・スミスの死後、ジョセフ・スミスのテキサス移住案を無視し、ブルガム・ヤングが提唱するユタ・オレゴン移住案を推し進めました。スミスの夢に忠実であろうとした親スミス派はヤングに反発して教会から離脱し、独自のモルモン教会をつくりました。

ミズリーでモルモン教徒が自警団に殺される。ジョセフ・スミスにはダナイト団という私的な軍隊を持っていました。モルモン教徒はアカンソーでも使徒が殺されています。

そうした中で、ユタ戦争のその時、アカンソーを出発した140人の移民がユタを通っていました。ミズリー出身者も含んでいました。彼らはカルフォルニアを目指していました。彼らはシェラネバダの雪を避けるため、南回りのルートを取っていました。ユタの中心を通るものでした。そこで休息を彼らは取ります。モルモン教徒はこの一行を襲い、虐殺しました。生き残ったのは子ども18人でした。
指揮をしたのは、ジョン・D・リーでした。合衆国は士官、ジェイムズ・ヘンリー・カールトンが虐殺の調査に派遣され犯人を確信しました。政府は新しい知事カニングを就任させました。リーは処刑されます。教徒の教えは、血の贖罪、黒人聖職者を禁じる。当時は一夫多妻制度でした。

ジョン・フェリアーは広大なアルカリの平原を歩く、飢えと乾きで死にそうでした。ジョン・フェリアーはライフルを捨て、灰色の肩掛けを下したところ、灰色の包みから5歳ほどの女の子の声がしました。イリノイ州のノーブーからのブルガム・ヤング一団に助けられます。女の子はルーシー・フェリアーとして育てられます。やがてルーシーは大きくなり、四人と七人の妻がいる男性二人(ノーイック・ドレバー、スタンガーソン)に結婚を迫られます。ジョン・フェリアーは死に、ルーシー・フェリアーはトレイバーと結婚させられ、死んでしまいます。ジョン・フェリアーは逃げた罪で、スタンガーソンに殺されます。

ジェファソン・ホープは復讐に燃えて、彼女ルーシー・フェリアーの指から結婚指輪を抜き取り、二人を追い復讐を誓います。
のノーイック・ドレイバーは金があり、彼の私設秘書にスタンガーソンがなっていました。二人はヨーロッパに旅立っていました。

「警察捜査官のベーカー街分隊」非常に汚いボロボロの服を着た六人の浮浪児が、ホームズの掛け声で一列に並んでいます。
スタンガーソンのホテルの部屋から出てくる男を、牛乳配達の少年が見ていました。ベーカー街分隊の一人が、御者(ジェファソン・ホープ)をホームズのところに連れてきます。結末はどのようになるのでしょうか?

四つの署名 Sign of Four 『リピンコット・マガジン』アメリカ、1890年10月 事件1888年9月18日~9月21日
ドイルの2作目
暇な時、ホームズはコカイン注射をします(コカイン7%の溶液)。覚醒剤を使用しなくても、警部が事件をホームズに相談しにくれば精神的高揚感が得られます。「これが私の報酬です。頭脳労働なしには生きられない。それ以外に命を懸けられるものはあるか?」とホームズは言います。

ミス・メアリーモースタン嬢が訪れます。毎年高価な真珠が正体不明の人物から一個送られてきます。最近それに手紙が入っていて、友人二人と一緒に来るように指示されたのです。それで、三人(ホームズ、ワトソン、モースタン嬢)で支持された場所に向かいます。

三人連が、つれてこられた禿げた男(サディアス・ショルト)の自宅で話を聞く。今までの起こった事実が話されます。財宝を禿げた男の双子の兄(バーソロミュー・ショルト)のもと、ポンディシェリ・ロッジに向かいます。宝石は盗まれて、そこで兄は殺害されていました。バーソロミュー・ショルトの毒矢による死体の顔は笑ったように引きつっていました。
二人の犯人と思しき足跡が現場にありました。義足の男が、侵入して、もう一人の犯人は裸足の小さい足跡にはタール(クレオソート)の臭いがしました。借りてきた犬(トビー)の鼻にクレオソートのハンカチ押し付け、そのあとを追いました。ついた先は蒸気船の船着き場でした。後日殺害現場には「四つのサイン」の紙切れがありました。
*ヒポクラテスの微笑とは、毒により、強縮性の痙攣の際に生じる、笑っているような表情のようにひきつって歯をむき出す症状
http://homepage2.nifty.com/shworld/18/10_a/disease/01.html

蒸気船の夫人から、義足の男が「オーロラ号」を借りに来たと知らされます。ベーカー街非正規隊にホームズは「オーロラ号」を探すように命じます。ホームズはオーロラ号の船長モーディカイ・スミスと息子のジムを行方不明として新聞に載せます。

バーソロミュー・ショルトを殺害したのが、弟のサディアス・ショルトや使用人たちをすべて逮捕してしまったアセルニー・ジョーンズ刑事(義足の男の特徴を示したにもかかわらず)。ホームズは手掛かりがなかなか見つからないので、船員に変装してオーロラ号を見つけ出します。サディアス・ショルトのアリバイがあるので自信を失ったジョーンズ刑事は、ホームズから電報で呼ばれワトソンのもとに現れました。続いて訪れたのはよぼよぼの老水夫でしたが、実はホームズの変装であり、ついに犯人の居場所をつきとめたといいます。

テムズ川でオーロラ号の船を警察の快速ランチで追うホームズたちとアセルニー・ジョーンズ刑事。犯人ジョナサン・スモールはグレイヴズエンドでブラジル行の「エスメラルダ号」に乗る予定でした。
テームズ川の船の追跡劇でオーロラ号を追い詰め捕まえたあと、ジョナサン・スモールの「アグラの財宝」にまつわる奇妙な話が始まります。

インド大反乱にインド派遣軍の将校だったミス・メアリーモースタン嬢の父、モースタン大尉とショルト少佐、下士官だったスモールも在任中に遭遇します。スモールと三人のシーク教徒とで奪った財宝をかくし、犯罪が分かり、インド、アンダマン諸島(イギリス反乱軍兵士の流刑地)で刑に服していました。その時、アンダマン諸島にモースタン大尉とショルト少佐がいました。こうしてバーソロミュー・ショルトが何故殺されたのか、事件の背景が語られます。

バスカヴィル家の犬 The Hound of Baskervilles 「ストランド・マガジン」1893年12月 1888年9月18日~21日
「四つの署名」の解決から4日後に事件。
朝、客が忘れていったスッテキを手に取ると「ペナン・ローヤー」と呼ばれる品で、「謹呈、ジェイムス・モーティマー氏、MRCSへ、CCH友人たち」と彫られていました。この杖の分析から、依頼人モーティマー氏がホームズの部屋にあらわれます。
*ダートムア(デヴォン州南西部に広がる台地)
*ムア:ヒースやハリエダニシダが生え、地層が岩盤になっている排水の悪い高原地帯の荒野、荒地。

バスカヴィルの荘園はユーゴー・バスカヴィルによって所有されていました。ミカエル祭の日、5,6人の仲間ととある郷士の娘をさらい、その邸の二階の部屋に閉じ込め、いつ終わるともしれない酒宴を始めました。娘は蔦をつたって逃げ、男たちは犬にその娘のハンカチを嗅がせて馬で逃げた後を追いました。娘は死体となっていました。ユーゴー・バスカヴィルの死体の上に覆いかぶさるように立って、彼の喉をくわえて引っ張っている大きな獣がいました。犬のような姿をしていました。
以後、悪霊のはびこる暗い夜更けに、決してムアには足を踏み入れるな!と言い伝えられています。

ホームズはサー・チャールズ・バスカヴィル卿の主治医モーティマーからサー・チャールズ・バスカヴィルが不明死をとげた件で依頼を受けるます。
死体のそばには謎の足跡がありました。サー・チャールズは夫人に先立たれ館には、使用人のバリモア夫妻とだけ住んでいました。サー・チャールズは就寝前に、イチイの並木道を散歩するのが日課でした。不明死をとげる前からサー・チャールズは心臓が悪く、息切れがひど状態でした。

若き甥の、カナダで農園を営んでいる、サー・ヘンリー・バスカヴィルがバスカヴィル館を継ぐためにやってきました。近くにはモーチィマー博士、バスカヴィル館に長年仕えてきた執事のバリモア夫妻、メルピット・ハウスの昆虫学者テイプルトン兄 妹のベルリ嬢、脱獄囚のセルダンがおりなす事件。バスカヴィル家の財産をめぐる事件でした。

クーム・トレイシーのローラ・ライオンズ夫人が、サー・ヘンリー・バスカヴィルと最後を迎えたその場所であう約束をしていました。レミントン製のタイプライターを撃つ仕事をしていました。フランクランド氏は訴訟好きで、ローラ・ライオンズ夫人の父親でした。フランクランド氏に導かれてワトソンは、望遠鏡でムアをのぞく。丘の上に動くものを発見します。

脱獄囚のセルダンの転落死。ムアで猟犬の吠え声を聞いたくらいで、これだけの荒れくれ男が、自分が捕まる危険をおかしてまで、助けを求めて、恐怖の悲鳴を上げたりするだろうか。・・・どうして、犬に追われているとわかったのだろう。
「失礼しました。つい、見とれてしないましてね」と言いながら、向こう側の壁にずらり並ぶ肖像画を指し示しました。・・・「これでも、わたしが絵を多少はわかるということをワトソンは認めてはくれません。それは、美術を見るときの見解の相違でして、まあ、ワトソンの嫉妬のせいでしょう。それにしても、どれもみな、極めつきの見事な肖像画ですね」・・・青い絹をまとった女性はネラーの作でしょう。そうして、かつらをかぶったあの紳士像はレイノルズのものです。全部、ご家族の肖像画でしょうね」
ホームズが肖像画を見ていて発見するのは、あのステイプルトンの顔そのものでした。
準男爵は眉をひそめ、わたしたちに見限られたと思って気分を害しているようでした。

「馬車で行ってください。そうして、二輪馬車はすぐに返し、歩いて帰れると、はっきり知らせておいてください」「ムアを歩いて帰れとおっしゃるのですか」
メリピット荘からグリンペン街道を通じる直線の道に沿って来てください。それ以外の道には決して入らないようにしてください」「おっさるとおりにします」
「武器を持っているか、レストレード?」小さな警部は微笑んでいます。「私がズボンをはいている以上、尻ポケットがり、尻ポケットがある以上、そこには何か入っています」「結構!ワトソンと私も緊急事態に備えて持っている」「この事件は本当に大詰めみたいですな、ホームズさん一体どうするんですか?」「待ち伏せだ」
その瞬間、レストレードが恐怖の叫び声を上げ、ぱっと地面に這いつくばりました。サー・ヘンリーに襲い掛かるバスカヴィルの犬。

*呪われたバスカヴィル家の話。サー・チャールズ・バスカヴィルは着古した片側の靴は、ホテルで、何故盗まれたのか?・・。

 魔犬が潜むダートムアー沼地


 ホームズが事件の捜査で、身を隠していたとされる円状巨石列柱


ドイルはボーア~戦争で知り合った友人の出身地ダートムアの「黒い魔犬」の伝説を聞き   ダートムア沼地、ホームズが隠れた円状巨石列柱を見ます。

恐怖の谷 The Valley of Fear 『ストランド・マガジン』1914年9月号から1915年5月号。
アレク・マクドナルド警部はモリアーティ教授の書斎に入って部屋を観察します。ホームズがモリアーティ教授はどのような人物かを説明します。モリアーティ教授が事件の背景に入るらしい。

ホームズはポーロック(彼はモリアーティ教授に隠して暗号を送ってきました。ポーロックはモリアーティの部下)なる男から数字が羅列された暗号文を受け取り、その解読に当たります。そこに書かれていたのは「バールストン、ダグラス」ということがらでした。
バールストン館のダグラスという男に危険が差し迫っているという内容でした。
そこに、ロンドン警視庁のマクドナルド警部があらわれました。暗号文を見て驚きなす。昨夜バールストン村のダグラス氏が惨殺されたのです。

(事件)バールストン村(サセックス北部)のダグラス氏の領主邸でダクラス氏が殺害されました。
担当はサッセクス州警察のウイルソン巡査部長でした。
焼印をつけた男は復讐のため、アメリカのバーミッサ・バレイから、ダグラスがアメリカから去って6年後、彼を殺害するためにロンドンから自転車でバールストン館までやってきました。

ダクラス氏はアメリカで生活していた時、一度結婚していました。その妻は死亡していました。ダグラスの死体は、銃身を切り落とし短くした散弾銃で顔を撃たれていました。ダクラス氏はイギリスに来てダグラス夫人と結婚しました。殺害現場に一つ残ったダンベルの謎。抜き取られた結婚指輪、死体の腕には焼印がありました。
バールストンの領主邸は、ジェームス一世の冶世五年目に建てられ、堀に囲まれたジャコビアン様式の邸宅として有名でした。この邸宅のいわれを書いた古資料を読むホームズ。そこから得た情報から解決へと導きます。
スカウワーズ(自由民団)(ダクラスのアメリカでの生活をこの章では示しています。何故、アメリカから殺害しに来たのかがわかります。)

アメリカの炭鉱街・ペンシルベニア州ヴァーミッサ峡谷
ギルマートン山脈の渓谷は深い雪に覆われ、除雪車が鉄道の往来を可能にしていました。石炭、鉄鉱石の恐怖のベニート谷に、列車でシカゴからやってきたジョン・マクマードと警察二人。恐怖の谷の自由民団(鉄の団結組織:○の中に△の焼印がる組織)。ジョン・マクマードはドイツ人の家に下宿します。そこの娘エティに言い寄る、スカウワーズのテッド・ボールドウィン。マギンティバー支部長議員をはじめとする、自由民団(クー・クラックス・クラウン)が支配する恐怖の谷でした。
シカゴの探偵事務所(ピンカートン)バーディエドワーズ(ジョン・マクマード)恐怖の谷を解放するためにやってきました。彼は上手くことを終えました。

彼(バーディエドワーズ(ジョン・マクマード))はシカゴでエティと結婚します。テッド・ボールドウィン始め絞首刑を逃れた一味の残忍な数名が生き残った。エティは死亡します。
マクマードはジョン・ダクラスと名前を変えてイギリスに渡り、二度目の結婚をします。そうしてサッセクスの紳士として5年生活を終えました。そこで、殺人がなされました。事件の真相は?

ピンカートン探偵社アラン・ピンカートンが、シカゴの弁護士エドワード・ラッカーとともに探偵社を設立しました。1850年代、大統領選挙に立候補していたエイブラハム・リンカーンの暗殺計画を未然に防ぎ有名となりました。

 ピンカートンとリンカーン


1870年代、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道社長のフランクリン・B・ガウエンは、会社が経営するペンシルベニア州ポッツヴィルの炭鉱の、労働組合の内部事情を調べるため、ピンカートン探偵社を雇った。探偵ジェームズ・マクパーランドはジェームズ・マッケンナという偽名を使って秘密結社「モリー・マグワイアズ」に潜入し、組織を瓦解させた。アーサー・コナン・ドイルは、この事件から着想を得て、シャーロック・ホームズ・シリーズの『恐怖の谷』を書きました。同じくホームズ・シリーズの『赤い輪』でも、ピンカートン探偵社の探偵が小さな役で登場しています。

シャーロック・ホームズの冒険 The Adventures of Sherlock Holmes (1892)

ボヘミアの醜聞 A Scandal in Bohemia 「ストランド・マガジン」1891年7月号 1887年5月20日~5月22日
ジョン・H・ワトソンは結婚してベーカー街を離れ、開業していました。往診の帰りベーカー街221Bの前を通る。懐かしく思い、部屋を訪ねると、ホームズは少し太ったことから、結婚生活が上手くいっているようだとホームズは言います。
そして、紙の透かしに入った紙をワトソンに見せます。紙に書かれたアルファベットから依頼主の地位と地域を割り出すホームズ。依頼主の細かな人物描写。マスクをつけた紳士があらわれ、フォン・クラム伯爵と名のり、ボヘミア王家の問題で代理人としてきたと言うが、ホームズは伯爵の正体がボヘミア国と見抜きます。

発端は5年前、ボヘミアの王が皇太子の時代、ワルシャワで、アイリーン・アドラー(ニュージャージー生まれのアマリカ人。ワルシャワ王立オペラのプリマドンナ後、ロンドンに住みコントラルトの歌手をしています。シャロックホームズの話の中で、一番謎と美貌を備えているとされている)と知り合いになります。しかし、今、ボヘミアの王は結婚を控えています。結婚相手は厳格な王族の次女です。クローティールド・ロトマン・フォン・ザクセン=マイニンゲン、スカンディナヴィア王国の第二皇女です。
「かの王室の家憲が厳格なことは其方も存じておろう。王女自身の性格もまた、繊細そのものであるのす。余の品行にいささかの影あらば 事は終局へと進んでいくだろう。」過去の2人の証拠写真をネタに、結婚相手に写真を送るとアイリーン・アドラーは脅してきています。困った王が相談にホームズを訪れました。

牧師は立会人なしでは結婚を認めぬというので、ホームズとワトソンは聖モニカ教会で独身女性アイリーン・アドラーと弁護士の独身男性ゴドフリィ・ノートンの結婚の立会人になってしまいました。「花嫁は僕にソヴリン金貨一枚をくれてね、事の記念として時計鎖に付けておこうと思う。」

馬車から降りたアイリーンは周囲で喧嘩が始まり、喧嘩に巻き込まれそうになるアイリーンを牧師に変装したホームズが守ろうとして、出血し負傷します。ホームズがゆっくりと物々しくブライオニ荘に運ばれていき、ワトソンは見とめてから発煙筒を家に投げ込み「火事だ!」と叫びます。煙の中でうごめく人影を認め、誤報だと群衆を鎮めるホームズの声がしました。その時アイリーンも大切な物を取り出そうとして、写真のありかをホームズに知られてしまいます。
ホームズは明日、ボヘミア王と写真を取りももどそうと、ベーカー街に戻ります。ドアの前で鍵を開けようとした時、通行人の青年から、おやすみなさいと声をかけられます。

 「おやすみなさい、シャーロック・ホームズさん」と声をかける 1891年7月号ストランド・マガジン


翌日、アイリーン・アドラーは夫ノートンとともに大陸に渡ったと聞かされる。去った後、手紙とアイリーン・アドラーの写真が残されていました。王と一緒に撮った写真は、結婚したので、予防策として持っておくが悪用しないと書いてありました。
公開しないという条件に王は安心します。最後はしたたかなアイリーンアドラーが一枚上でした。ボヘミヤ王は謝礼としてエメラルドの指輪を渡そうとします。ホームズは王の持ち物にはもっと重要なものがあります、「この写真です!」と言ったので、ボヘミヤ王は驚きます。

日本では「帝王秘密の写真」南陽外史訳中央新聞 1899年(明治32)7月31日~8月7日(不思議の探偵)

赤毛組合 The Red-Headed League 『ストランド・マガジン』1891年8月号1887年10月29日~10月30日
依頼人は赤毛組合を突然解雇されたと相談に来きます。
入ってきた依頼人をホームズが観察した結果、かなり人物像がはっきりしてきます。
依頼人ジャベズ・ウィルソン氏は、シティのコバーグ・スクエアーで小さな質屋を営んでいます。本来は人を雇い払うのも難しいのですが、求人広告をだすと、見習いでいいからと半分の給料で働いてくれる人がきます。
その使用人は写真が趣味で、写真を現像するために、しょっちゅう地下室に飛び込むのが問題です。もう一人簡単な料理と掃除をする14歳の少女が働いています。

8週間前に、使用人の青年が赤毛組合の欠員がでるといい、その新聞広告を見せます。依頼人は出不精でほとんど家にこもっています。
新聞の求人には、ロンドンの居住者に限定され、心身共に健全な成人赤毛男性に応募資格があり、本人が自ら応募すること、給料は週4ポンドなどが記されています。

若い使用人ヴィンセント・スポールディングは「本当に明るい、輝かしい、燃えるような赤毛でないとダメなんですが、ウイルソンさんなら楽勝ですよ。」と言います。

依頼人が面接にいくと多くの赤毛の応募者がいましたが、スポールディングが口添えして「欠員応募にきました。」言うと、赤毛組合の担当者ダンカン・ロスは、「まさに素晴らしい、適役だ、彼は全てを満たしている。」と言って採用が決まります。

組合員の仕事というのは、毎日午前10時から午後2時までの4時間、給料は週4ポンドで、事務所にこもってブリタニカ百科事典を書き写す(フールスキャプ紙:透かしの入った紙)、奇妙な仕事でした。この仕事の間、ウィルスンはどんな事情があっても絶対に事務所の外へ出てはならず、これに違反した場合は組合員の地位を失うことになると言い渡されました

質屋の仕事は4時間新しく来たスポールディングに任せて、出かけて行きました。
それが8週間後突然、ウィルスンが事務所を訪れるとドアーには鍵が掛かっていて貼り紙がしてあり、「赤毛組合」は解散したと書かれていました。

「煙草を吸おう。ちょうどパイプ三服分の問題です。これから、五十分間は話しかけないでくれたまえ。」ホームズは椅子に座ったまま身体を丸めた。足を抱え込み、やせたひざを鷲鼻の近くに持ってきます。目をつむって座る。黒いクレイ・パイプを怪鳥のくちばしのように口からつきだしたまま。結論が出たようなので、パイプを炉棚の上に置きました。今日の午後、聖ジェイムズ・ホールでサラサーテの演奏がある。」とホームズは言い出しました。「どうだろう、ワトソン。診察の方は二、三時間休めるか?」

ワトソン、知り合いの警察官ピーター・ジョーンズ警部と、シティ・アンド・サバーバン銀行の頭取であるというメリーウェザー、ホームズはこの4人でジョン・クレイという犯罪者を捕まえるつもりなのです。
ジョン・クレイ(ヴィンセント・スポールディングは)(はジョーンズが以前から追っている重罪犯で、ホームズも1~2度関わりを持ったことがあります。4人は馬車で質屋の裏の銀行に向かい、地下室へと入りました。待つこと一時間、現れたのはスポールディングと赤毛組合にてジャベズ・ウィルソンを合格させたダンカン・ロスことアーチでした。

「禿頭倶楽部」南陽外史訳中央新聞 1899年(明治32)8月8日~8月14日(不思議の探偵)

花婿失踪事件 A Case of Identity ストランド・マガジン 1891年9月号1887年10月18日~10月19日
ホームズに相談に来た女性(依頼人メアリー・サザーランド)の服装の細かな観察、フラシ天の襟元と袖口、指の観察からタイピストという仕事についていることがわかりました。依頼人のメアリー・サザーランドは夫を探してくれとホームズに相談に来たのです。

メアリー・サザーランドと母の再婚相手(義理の父は母より15歳年下)ジェイムズ・ウィンディバンクは赤ワイン輸入会社の外交員で、3人で暮らしていました。彼女ははホズマー・エンジェルという男と舞踏会で知り合い婚約しました。これに反対した何歳か年上の義理の父に許しを請うのがとても嫌でしたので、会社のフランス支社のあるボルドーの父宛に手紙を書きました。手紙は結婚式の朝に戻ってきました。手紙が届く前にイギリスへ出発したらしいのです。ホズマーさんは2人乗りの馬車で私と母を迎えにきました。彼はたまたま通りにいた4輪の辻馬車に乗り込みました。キングズ・クロス近くのセント・セイバーズ教会で、4輪馬車から彼が出てくるのを待ちました。しかし、馬車にはホズマー・エンジェルはいませんでした。母は怒っていました。

メアリー・サザーランドは叔父が残してくれた遺産の年100ポンドという利子収入があります。しかし、家族の負担になりたくないので、一緒に住んでいる間だけという条件で、母と義理の父にすべて渡しています。彼女はタイピストの収入で暮らしています。
クロニクルにホズマー・エンジェルの行方不明の情報提供を呼びかける広告をだしました。それがこの広告で、彼からの手紙が4通です。どれも同じタイプライターで書かれた。文字に特徴があります。

原因を解明した後、ホームズは、
「法律は確かにお前を罰せない。利益を得るただ一人の男はだれだ?」
「事実を言っても彼女は信じないだろう。」

「紛失の花婿」南陽外史訳中央新聞 1899年(明治32)8月15日~8月20日(不思議の探偵)

ボスコム谷の惨劇 The Boscombe Valley Mystery 「ストランド・マガジン」1891年10月号1889年6月8日~6月9日
ワトソンが妻と朝食のとき、電報が届きます。ホームズからの2日空いていないか?西イングランドから依頼を受けたのです。ヘレフォード州のボスコム谷のボスコム沼のほとりでチャールズ・マッカーシーという男が殺害されたとのことです。

二人はパディントンを発ちます。
ボスコム谷へ行く列車に乗ったときの挿絵が、ワトソンとホームズの衣服のイメージになります。
ホームズは犯行現場に着くまで、ポケット版ペトラルカを読みます。

ワトソンはホテルで時間つぶしに黄表紙本の小説を読みます。

ボスコム谷の大地主ジョン・タナー氏が、殺害されたチャールズ・マッカーシー氏にハザリーの農場の一つを貸していました。

ジョン・タナー氏はオーストラリアのヴィクトリアの金鉱山で資産を築きました。チャールズ・マッカーシー氏も以前オーストラリアに住んでいました。二人は以前、オーストラリアで知り合い、ロンドンで再会したのです。

レストレード警部は、殺人の容疑者として父親(チャールズ・マッカーシー氏)とボスコム池で口論していた息子のジェームズ・マッカーシーを逮捕します。近所には彼の無実を信じている人間が何人かいて、幼馴染みのアリス・ターナーもその一人でした。彼らはジェームズ・マッカーシーの人柄から彼は絶対に殺人など犯していないと訴えます。レストレードに顧問料を払い、事件の調査を依頼しました。レストレードは困ってしまい、こっちに振り向けてきたのです。

被害者が残した、(クーイー)ということば、ネズミに関することばの謎。
ホームズは現場をホームズらしく、丹念に調べます。
クーイーはオーストラリア人に特有の掛け声で、オーストラリア人同士で使われます。ボスコム池でマッカーシーが会おうと思っていた人物は、オーストラリアにいたことがある誰かだと推理します。
ラット、アラット、パララット。「バララットから来たオーストラリア人」これが事件の鍵となります。牧場主と借り手には二人の過去が影響していました。

気圧計で雨の予想をするホームズ。ホームズは殺害現場を調べて犯人の特徴を述べます。
誰が何のために殺害したのか?

「親殺の疑獄」南陽外史訳中央新聞 1899年(明治32)8月21日~8月29日(不思議の探偵)

オレンジの種五つ The Five Orange Pips 「ストランド・マガジン」1891年11月号1887年9月29日~9月30日
九月の終わりの彼岸の嵐が吹き荒れる夜、ワトソンはクラークラッセルの海洋小説に没頭していました。
クラークラッセルの海洋小説についての説明⇒http://homepage2.nifty.com/shworld/05_tin_binran/07_five/07_2.html

そのような日にホーシャムクライアント(ジョン・オープンショー)が訪れます。彼が話し始める奇妙な話。私の祖父には2人の息子がいました。伯父のエリアスと父のジョーゼフです。父はコベントリーに小さな工場を備え、自転車が発明されたとき拡大しました。父は無パンクタイヤの特許を所有し、非常に成功をおさめ、それを売ってかなりの資産を残して引退しました。伯父のエリアスは若い時アメリカのフロリダで農場主になり、南北戦争に参加した元大佐でした。伯父イライアスは弟ジョセフ(父)と一緒に暮らし始めました。

黒人に反感を持ち、黒人に参政権を与える共和党の政策が気に入らなくてホーシャム近くのサセックスに小さい屋敷を構えました。
伯父は町に一度も出かけたことがないと思っています。伯父はブランディをがぶ飲みし、タバコも非常にたくさん吸いました。

伯父には珍しくインド(ポンディチェリ)からの手紙がサッセクスのホーシャム屋敷に送られてきました。中から乾いたオレンジの種5つがパラパラと出てきました。伯父は「K、K、K!」と叫び、「罪の報いがやってきた!」それから叔父は財産を私の父に譲る証言者になるよう言います。手紙の7週間後に叔父は死にました。。自殺とされました。

父は伯父のホーシャム家の屋根裏部屋を詳しく調べ、伯父の残した書類を見つけると、伯父はどうやら、アメリカの北部から送り込まれた渡りの政治家に対して頑強に抵抗していたようです。真鍮の箱から出てきた書類にはK.K.K.の頭文字が書かれていました。
オレンジの5つの種が入った手紙が1年後、父にも届きました。父は当惑して「なぜだ、いったいこれはどういう意味だ、ジョン?」と尋ねました。

「書類を日時計の上に置け、なんの書類だ?日時計とはなんだ?」父は訊きました。「庭に日時計があります。他にはありません」私は言いました、しかし、書類は破棄された書類の事に違いありません。警察に届けなければと私は言いました。父は笑いものになるだけだといいました。

ダンディ(エジンバラの近く)の消印の手紙が来てから三日後、父も死にます。
それから2年8か月がたちました。私はホーシャムで平穏に暮らしていました。青年ジョン・オープンショーにもオレンジ種5つが届きます。消印はロンドン東地区。「書類を日時計の上に置け」K.K.K.
彼は警察に相談しましたが、警察は笑って聞くだけでした。伯父が残した書類の灰の中に小さな燃え残りの紙の端がありました。ホームズは燃え残りの紙の端を真鍮の箱に入れて、他の書類は全て燃やしたが、これがただ1枚の残りだと書いた紙を入れ、その箱を「日時計の上」に置くように。とジョン・オープンショーに指示しました。

ジョン・オープンショーはウォータールー駅の最終電車に乗るため急いでいました。河汽船用の小さな踊り場の角で足を踏み外したようで、死体には損傷はありませんでした。こうして、相談に来た翌日、ジョン・オープンショーが死体で発見されました。
ホームズは、送りつけられた手紙の消印が港町なので、犯人は船乗りではないかと疑います。ジョン・オープンショーが相談しに来たのにもかかわらず水死体になってしまい、ホームズ自身が警察となり解決しようとします。
ホームズはアメリカ人3人に、彼らがやったと同じように手紙を送りますが、彼らの乗ったローンスター号は・・・?

「暗殺党の船長」南陽外史訳中央新聞 1899年(明治32)8月30日~9月2日(不思議の探偵)

唇のねじれた男 The Adventure of the Blue Carbuncle ストランド・マガジン1891年12月号1887年6月18日~6月19日
ワトソンの妻は、彼女の女友達(ケイト・ホイットニー)が、夫(アイザ・ホイットニー)の行方が分からないいと相談を受けます。彼は大学の時、気まぐれに煙草に阿片チンキをたっぷり染みこませ吸い、中毒になってしまいました。

ケイトは、最近夫は発作が起きるとシティの東外れにあるアヘン窟に行くという確実な情報を持っていました。夫がいるのは、アッパー・スワンダム・レイン「ゴールド・バー」です。相談者の夫アイザ・ホイットニーを探しに彼の主治医であるワトソンは怪しげな阿片窟へと向かいます。アイザ・ホイットニーを連れて帰る時、そこで意外なことに、ホームズが阿片窟にいました。ホームズは阿片窟から逃れられなくなった、セント・クレア氏の調査のため阿片窟に泊まっています。ワトソンはわけがわかりません。

電報が届きました。セント・クレア夫人がずっと待っていた大変高価な荷物がアバディーン船会社の事務所に到着したので、取りに来るようにというものでした。その会社の事務所は、君が今夜僕を見つけたアッパー・スワンダン・レインに続くフレズノ街にあることは知っているかもしれない。夫人がスワンダン・レインを歩いていると、突然叫び声が聞こえ、夫が自分を見下ろしている姿を目にしました。夫人は夫を探しに阿片窟に向かいますが、入れません。バートン警部と警官とで中に入るもセント・クレア氏はそこにはいませっmでした。

事件担当のバートン警部は、阿片窟の3階に住んでいる不気味で体の不自由なヒュー・ブーンに目をつけました。彼の恐ろしい顔はシティによく出向く人ならだれでもなじみのある顔でした。彼は乞食を生業としていました。彼は阿片窟に下宿していて、ネビル・セント・クレア氏を最後に見た人物として警察に連れて行かれました。

「誰が当番だね?」とホームズは聞きます。「ブラッドストリー警部です」
「ちょっと内密の話がしたいんだが、ブラッドストリー」
「ケント州、リーのネイビル・セント・クレア氏の失踪に関係した疑いをかけられている、ブーンに会いたいんだが。」
「独房の彼を洗いたいんだ。」
ブーンを洗った後ホームズは、「ケント州、リーのネイビル・セント・クレア氏です。」と皆に紹介します。
「乞食道楽」という名前で出版されました。

雑誌「日本人6~9 」1894年(明治27)1月3日~2月18日

青い紅玉 The Adventure of the Blue Carbuncle 「ストランド・マガジン」1892年1月号1887年12月27日
クリスマスから2日目の朝、ホームズは紫のガウンを着てくつろいでいました。
宴会の帰りにトナテム・コート・ロード家に向かい、退役軍人で守衛やポーターの仕事をしているピーターソンがグッチ街に来たとき、男がごろつきに絡まれ、帽子をたたき落とされ、スッテキを構えたところ、後ろのショウウインドウが割れました。男は驚き、持っていたガチョウを落とし、警官が来たのでごろつきも去って行きました。ピーターソンの戦利品の持ち込まれた帽子を見ながら、持ち主の特徴を指摘します。

ホームズさん「ガチョウが」と便利屋のピータソンはあえいです。「見てください、うちの女房がガチョウの餌袋(食道の素嚢)で見つけた物を。」思わぬところから、モーカー伯爵夫人のブルー・カーバンクルが出てきます。この宝石にかけられた報奨金1000ポンドというのは市場価格の20分の1に満たないでしょう。これはコスモポリタンホテルから盗まれたブルー・カーバンクルでした。配管工のジョン・ホーナーが盗んだ容疑で起訴されています。

ホームズは持ち主特定のために効果的な新聞広告を打ちます。新聞広告を見て尋ねてきた、ヘンリー・ベーカー。
ヘンリー・ベーカーさん「品物を数日預かっていました。」「あなたの方から、住所を通知する広告があるものと予想していましたのですが、。どうして広告を出さなかったのか、ちょっと不思議な気がします。」
訪問者は面目ないという様子で笑いました。「昔のように金に余裕がないので、襲われた悪党に帽子とガチョウを持ち去らわれたと思い、これ以上無駄なお金を使う気になれなかった。」と言います。ホームズから代わりの新しいガチョウと帽子を返してもらいヘンリー・ベーカー氏は去って行きました。
それから、ブルー・カーバンクルが餌袋に入ったガチョウはどこのガチョウか調べが始まります。配管工のジョン・ホーナーではなく、本当に盗み出したのは、・・・。    

「奇怪の鴨の胃」 南陽外史訳中央新聞 1899年明治32年7月23日から30(不思議の探偵)

まだらの紐 The Adventure of the Speckled Band 「ストランド・マガジン」1892年2月号1883年4月6日
4月初めの早朝に、若い女性が恐怖におびえ、震えながらホームズに相談に来ました。 彼女の話は、命に係わる切羽詰まったものでした。一家はサリー州のストーク・モラン宅に双子の姉妹と義理の父、グリムズビー・ロイロット博士と3人で住んでいます。双子の姉妹の母は子どもの頃なくなり、財産は義理の父が管理しています。娘が結婚するとき、半分ずつ相続するようになっていました。

ストナー双子(ヘレン、ジュリア)の結婚を控えた姉(ジュリア)の謎の死の前、ヘレンはジュリアから「最近、真夜中に口笛の音が聞こえる」と話していました。ジュリアは結婚式の2週間前に自室で「まだらの紐」ということばを残して死にました。2年後ヘレンの結婚が決まった時、屋敷の改築が始まり、以前ジュリアが使っていた部屋をヘレンが使うことになります。

姉の部屋には、固定されたベッド、換気口、ロープがありました。その部屋に泊まり、真相を解明するホームズ。  

技師の親指 The Adventure of the Engineer's Thumb 「ストランド・マガジン」1892年3月号1889年9月7日~9月8日
「ボール箱」事件が1889年8月31日~、解決が9月2日。その5日後に事件発生。
ワトソンのところに診察を受けにきた患者の4本指がワトソンに差し出され、親指があるはずの場所は、恐ろしい赤色の海綿状になっていました。それは根元からすっかり断ち切られたか、引きちぎられていました。
「これは酷い!」と、ワトソンは叫んでしまいます。
患者の名はビクター・ハザリーで治水工学が彼の仕事でした。ライサンダー・スターク大佐という痩せたドイツ人の男から高額の仕事を依頼され、危うく「殺されそうになった」と話します。ワトソンは、警察に行く前にシャーロック・ホームズに相談することをすすめました。ワトソンがホームズに事件を依頼した2件のうちの1件の事件です。

犯人は彼に何の用があったのか?活性白土とは・・何か。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E6%80%A7%E7%99%BD%E5%9C%9F

大佐の話では、自宅の敷地に酸性白土 (fuller's earth) の層があるのを発見したが、それは両隣の別の人物の土地に広がっていたため、まず自分の敷地内にある酸性白土を掘って、それを売った金で両隣の土地を買おうと考えているため、秘密にしているのだということでした。酸性白土を掘るのになぜ水圧機を使うのかと聞くと、掘った酸性白土を圧縮して運び出すのだと言います。

不自然なところの多い仕事に疑問を抱きつつも、高い報酬にひかれて引き受けたハザリー氏ですが、呼び出された屋敷で謎の婦人に、すぐ逃げるようにと警告されます。

すぐ逃げるように言われましたが、仕事を終えたハザリー氏は、問題の巨大な水圧機の中に入り、底に付着したあるものを発見して、その強力な圧力発生装置何の目的で使われるのか、少なくとも活性白土の話はでっち上げだとわかりました。ハザリー氏に指摘されると、スターク大佐は叫び声をあげ、逆上した大佐はハザリー氏を閉じ込め、水圧機を動かし始めました。上から鉄製の天井が下がってきます。床も鉄製ですが、壁は木製で二枚の板の間から細い黄色い光が見えました。そこから間一髪で脱出します。更に屋敷から脱出するとき、技師は親指を切られたのです。

アイフォードへ向かうため、レディングからバークシャーの小さな村に向かう列車にロンドン警視庁のブラッドストリート警部と出かけます。館はアイフォード駅から10マイルほど行った所です。

指が無くなった原因は?何故この事件に水力工学エンジニアが必要とされたのか?
ブラッドストリート警部は、「彼らは半クラウンの偽造をしている。我々は確実に犯罪者を逮捕できると思う。」
しかし、ハザリー氏を閉じ込めて水圧機を動かし、彼のオイル・ランプが圧縮機で壊されたとき、木製の壁に火が付いたに違いない。この火事があった朝に、人間と大きな箱を積んだ馬車がレディングの方に急いで走り去っていました。
50ギニー(50×21シリング=105シリング、1ポンド=20シリング、5ポンド)で雇われたのは何の目的か。

「片手の機関師」 南陽外史訳中央新聞 1899年明治32年9月12日から20日(不思議の探偵)

独身の貴族 The Adventure of the Noble Bachelor 「ストランド・マガジン」 1892年4月
イギリスで一番の上流貴族(ロバート・ウォルシンガム・ド・ヴァア・セント・サイモン……バルモラン公爵の第二子、41歳、前政権の植民地次官)から依頼の手紙がきます。ロンドン警視庁のレストレード警部が、すでに調査を行っています。警部が貴殿の協力を得ることにまったく反対せず、何らかの手助けになるかもしれないとまで言って、お墨付きをくれたのです。

セイント・サイモン卿は、アメリカ・サンフランシスコの資産家アロシアス・ドランの一人娘、ハティ・ドラン嬢と結婚する模様。との記事をワトソンが読みます。セイント・サイモン卿は小さな地所以外、自分の財産を持っていません。この縁組よって共和党の淑女から英国の貴族夫人へと容易かつ公的に移行することが可能になったカルフォルニアの女相続人だけが利益を得たのではないことは明らかです。ホームズはあくびをしながら聞いていました。花嫁失踪前に出た記事はこれで全部です。

非常に内輪の結婚式でした。花嫁は何故失踪したのか?
式の間、教会の一番前の席に見知らぬ男が参列していました。式が終わって退場する時、花嫁が落とした花束を拾い上げたのもその男です。披露宴の席上、花嫁は気分が悪くなったと言って自室に引き下がり、いつまでたっても帰ってこないので父親が様子を見に行ったところ、花嫁が消えたことがわかったのです。

式の途中に花嫁がブーケを落としてしまい、信者席の紳士が拾ってくれました。花嫁は聖壇前の手すりの前に来て、ちょっと後ろを振り返ると 、死んだはずの男性が立って私を見ていました 。彼は何者でしょう?

披露宴の前に卿の昔の恋人ミラー(フローラ・ミラー……元アレグロのバレエダンサー)が来た事くらいでした。その後花嫁はミラーとハイド・パークを一緒に歩いているところ目撃されたのを最後に消息が途絶えてしまったのです。ミラーは現在拘留中とのことでした。

卿が帰った後入れ替わりにずぶ濡れのジャケットをきたレストレードが警部やってきます。ハイド・パークのサーペンタイン・レイクからハティ嬢の花嫁衣裳が発見されたので死体探しをしていたのでした。花嫁衣裳のポケットからは一流ホテルの領収証の裏に『F・H・M』の頭文字のサインがあるミラーが書いたらしきメモが見つかりました。興味深い領収証の金額一泊8ペンス、シェリー酒一杯8ペンス、これだけの相場のホテルは多くない。フランシス・H・モートンという紳士が宿泊しているのを突き止めます。

ハイド・パークにある池(サーペンタイン・レイク)を探索すると池の中から、バッグ、ウェディングドレス、サテンシューズ、花嫁の花輪とベールが出てきました。

「紛失の花嫁」 南陽外史訳中央新聞 1899年明治32年9月21日から27日(不思議の探偵)

緑柱石の王冠 The Adventure of the Beryl Coronet「ストランド・マガジン」1892年5月号1890年12月19日~12月20日
ロンドンで二番目に大きい銀行(スレッドニードル街のホールダー&スティーブンソン銀行)の頭取のアレクサンダー・ホールダー氏は、ある高貴な人の訪問を受けます。39個の緑柱石で飾られた英国で最も重要と言われる王冠を担保として融資をします。「さるやんごとなき方」から4日後には、それを受け取りに来ることが確かでなければ、私もこんなことはしません。千ポンド紙幣50枚を出納係に渡すよう命じました。王冠を自宅に持ち帰った頭取。緑柱石3個が紛失していて、その時王冠を手にしていたのは彼の息子でした。

頭取より依頼を受けたホームズはフェアバンクの頭取の自宅へ向かいます。
頭取の家に住むのは、3人のメイド、頭取のふがいない1人息子アサー、優しい姪のメアリー(兄の子ども)、最近家に来ている、ジョージ・バーンウェルとメイドの恋人で青果商のフランシス・プロスパーがいます。彼は木製の義足をしています。ジョージ・バーンウェルが姪御さんのメアリーに言い寄り、共謀してことを起こしたようです。イギリスの皇太子がある高貴な人だと言われています。

ぶな屋敷 The Adventure of the Copper Beeches 「ストランド・マガジン」1892年6月号1889年4月5日~4月20日
相談者は5年間、住み込みの家庭教師をしていましたが、雇い主が2か月前に転勤でアメリカへ渡ったので失業してしまい、求職広告をだし、求人広告にも応募しました。しかし成果はあがらず、わずかの貯金も底をつき始めました。ウエスト・エンドに家庭教師の紹介業者があり、週に一度勤め口はないかと、尋ねることにしていました。

いつもの紹介所のストッパーさんから、ハンプシャーの田舎に住むルーカスル氏から高い賃金で家庭教師に来てくれるように依頼されていると紹介されました。髪を短く切るのが条件でした。バイオレット・ハンター嬢はその条件はのめないと断りました。

バイオレット・ハンターは断ったことを後悔し始めました。そこに、雇い人ルーカッスル氏本人から“是非再考を求める”という手紙が届きます。応じてもらえるなら年に120ポンドをあなたに迷惑をかける補償として支払うと書かれていました。フィラデルフィアに住んでいる娘アリスの服を一着持っています。あなたにピッタリです。髪を短くすることは絶対条件です。とも書かれていました。

この手紙をホームズに見せて、バイオレット・ハンターは行くべきか相談します。しかし、判断する材料がありません。私の妹なら黙って見送りたくないですね。夜でも昼でも何かがあれば電報をいただければあなたを助けに行きましょう。2週間後、夜に電報が届きます。明日の正午、ウィンチェスター駅のバックスワンホテルに来てください。

*ストーリーはコナンの母が考えたといわれています。

シャロック・ホームズの回想 The Memories of Sherlock Holmes (1894)

白銀号事件 Silver Blaze 「ストランド・マガジン」1892年12月号事件は1890年9月25日~30日解決
ウェセックス・カップの本命馬、シルヴァープレイスが突然失踪します。
馬のオーナーのロス大佐と、この事件を担当しているグレゴリー警部の二人から協力を要請されました。
騎手として5年、調教師として7年大佐に仕えた熱心で真面目なジョン・ストレーカーが死体で発見されます。右手にナイフ、左手に赤と黒のスカーフが握られていました。馬が失踪した夜、予想屋と思われる男が、白銀号の厩舎にやってきます。この男がシンプソンだと思われます。

グレゴリー警部はフィッツロイ・シンプソンを逮捕します。グレゴリー警部は、シンプソンが馬丁に阿片末を入れたマトンのカレー煮を食べさせ、眠らせてことに及んだと推理します。これに対してホームズは、これは考えられない、その夜にマトンのカレーを選ぶことが出来たストレーカーとその妻が疑わしいと推理します。同じ料理を食べた他人に影響がなかったということは、阿片は厩舎番に取り分けられた後に入れられたと考えられます。メイドに見られずに入れられるのは、番犬が静かだったことから、夜中にやってきたのは犬が良く知っている人物だったのです。何故馬が行方不明になったのか?レース結果はどうなるか?
馬を持ち出すとき何故犬が吠えなかったのか?グレゴリー警部の逮捕は誤りか?何の目的でシルバープレイスは失踪し、ジョン・ストレーカーはどのように死んでいたのか?

黄色い顔 The Yellow Face 「ストランド・マガジン」1893年2月号1888年4月7日
ホームズは運動のための運動はほとんどしなませんが、ホームズ以上の筋力を持っている男はいません。何か職業上で達成しなければならない目的がある場合は体を動かすことをいといませんでした。

そういう時のホームズは疲れしらずでしたが、ホームズの普段の食生活は極限まで質素で、日常生活も同様でした。ホームズが薬の力にたよるのは、ただ事件がほとんどなく新聞がつまらない時だけで、それは生活の単調さが不服なのでした。

アメリカ帰りの未亡人と結婚したクライアントは、結婚3年たって妻は謎の多い行動をとり始めたと言います。近所に引っ越しして来た一家は何者なのか?夫人の謎を解くようにホームズに解決を依頼します。永遠のテーマ人種問題。最後はいつも、ドイルらしい結末で終わります。

株式仲買店員 The Stockbroker's Clerk  「ストランド・マガジン」1893年3月号事件1889年6月15日
相談者(ホール・パイクロフト)は、シルクハットをかぶり、きちっとした黒のこぎれいな服を着ており、賢いシティの青年で、イギリスのどのグループの男たちよりも優秀な志願兵を輩出し、優れた運動選手やスポーツマンを世に出すコクニーと呼ばれる階級の人間です。バーミンガムに向かう電車の中で、青年がホームズのところに来ることになったか話し出します。

以前5年働いていた会社はベネズエラ債に貸し込み、破滅を迎えました。会社は素晴らしい推薦状を書いてくれました。全員解雇され、就職氷河期のためなかなか就職が出来ない時期がありました。ロンドンで最も資本力のある会社に欠員がることを見つけました。広告には郵便でしか応募できませんでした。私は推薦状と願書を送りました。返事は次の月曜日に面接をして、私の風采が満足のいくものなら、その場で新しい仕事を得られるかもしれないというものでした。

面接の約束を取り付けた夜、男が来て、「あなたの能力だったら、もっと望みを大きく持たなければ。私なら年500ポンド提示します。」と言われましたが、そのような会社は知りません。「明日一時にバーミンガムに来てください、兄が待っています。」と男は言いました。

待っていた兄は青年に、「仕事はパリの名簿から金物販売業者の名前と住所を抜き出して、月曜日の12時までにリストにしていただきたい。次は陶器を売っている全家具店の一覧を作ってほしい。」と言いました。

ホームズがバーミンガムの事務所に来たとき、新聞でロンドンのシティで有名な証券会社の強盗未遂事件が発生、シティ警察のツーソン巡査部長、ポールコック巡査の活躍で男を逮捕した。という記事を知ります。
青年は何のための仕事だったのか?強盗未遂事件とは?

グロリアスコット号事件 The “Gloria Scott”  「ストランド・マガジン」1893年4月号事件1874年7月12日~9月22日
ホームズは引き出しから小さな変色した巻物を取り出すと、短い手紙をワトソンに渡しました。「こんな文章で恐怖を感じるというのは理解できない。ちょっと奇怪な文のようだが、それ以上ではないな」しかし、それまで体調の良かった頑固な老人がこれを読んで、バッタと倒れたのです。

ホームズの大学時代の友人ビクター・トレイバーは僕が大学にいた2年間でのただ一人の友人でした。彼のブルテリアがホームズの足首に咬みつき、10日間ホームズは横になっていました。 友人は良く見舞いに来てくれました。トレイバーの父は、財産家で思いやりのある人物らしく、治安判事をしている地主でした。

友人は父親の館に誘いました。ホームズがトレイバーの父を観察して、特長を述べている時、トレイバーの父は突然失神しました。父は起き上がり驚かしてしまったな、元気そうに見えても心臓の問題があって、ちょっとしたことで簡単に倒れてしまう。ホームズ君どうやって見破ったかしらんが、君は探偵が天職です。トレイバーの父はその日以来、ホームズには好意的でしたが、常に疑念の影がありました。ホームズがいるとトレイバーの父が不安がるので、訪問を切り上げるべきだと決めましたが、ホームズが帰るその日、事件が起きました。

父親に昔の友人である船員がたずねてきます。その父親が驚きから倒れてしまいます。父の過去を語る手紙が見つかります。
それは、
トレイバーが若いころ、ジェムス・アーミテージといってロンドン銀行に入り、公金横領によりオーストラリアへの流刑になったのですが、オーストラリアに向かうバーク船のグロリア・スコット号で起った事件でした。

マスグレーヴ家の儀式 The Musgrave Ritual 「ストランド・マガジン」1893年5月号事件1879年10月2日
ホームズの部屋での様子が記されています。部屋で拳銃を撃ち、V・R(ヴィクトリア女王)の文字を弾痕で飾る。部屋にはいっぱいの化学薬品。昔の事件を思い出したホームズは語り出す。

ホームズが最初ロンドンに出てきたとき、大英博物館の角を曲がったモンターギュウー街に部屋を借り、大学に行っていました。
ある朝、モンターギュウー街にある僕の部屋にやってくるまで4年間僕は彼と一度もあっていなかった、少し顔見知りの友人(レジナルド・マスグレーヴ)がいました。彼はイギリスでもっとも古いとみなされる家系の末裔でした。チャールズ二世(1630~1685)の時代、二世の右腕だった家系の屋敷で使われる儀式書が謎を呼びます。書斎で古文書を勝手に読んでいた才能ある執事を解雇します。解雇した執事の男とメイドが行方不明になります。儀式書の謎に挑むホームズ。

ライゲートの謎The Reigate Squires 「ストランド・マガジン」1893年6月号事件1887年4月14日~4月26日解決
事件の捜査で疲れたホームズは休養にために、一週間田舎で過ごすことになります。そこで泥棒騒ぎが起きました。不思議なものが盗まれます。次に、御者の男が殺されます。その背景にはこの田舎の複雑な二つの家の関係がありました。ホームズが危うくなるシーンも・・・。ホームズがとった対応は意外なものでした。

背中の曲がった男 The Crooked Man 「ストランド・マガジン」1893年7月号事件1889年9月11日~9月12日
ジェームスバークレイ大佐の妻ナンシーデヴォイはセント・ジョージ・ギルドの設立に興味を持っています。
ある日、夫婦が言い争い、夫人の言葉の中にDavidとい名が呼ばれます。
大佐の死の謎は・・。大佐の本名は?背中の曲がった男ヘンリー・ウッド、彼の飼っている動物は?彼は何者か?

旧約聖書のダビデがとった卑劣な行動は、ウリアとその妻バテシバの話が鍵となります。ダビッドは時々間違いをおかします。

入院患者 The Resident Patient 「ストランド・マガジン」1893年8月号事件1886年10月6日~10月7日
神経内科専門医のトレヴェリアン医師に開業資金を提出するという男が現れます。医師は資金提供者と生活を始めます。
ロシアから年老いた強硬症(カタレプシー、固まってしまう)を病んでいる患者とその息子が医師を訪ねてきます。そのロシアの老人に突然の発作がおこり、医師が薬を取りに行っている間に二人はいなくなります。その翌日、医師が借りている裕福な家主の男が寝室で首を・・。その家主の死の謎には、事情がありました。

ギリシャ語通訳 The Greek Interpreter 「ストランド・マガジン」1893年9月号 事件1888年9月12日
ホームズの兄であるマイクロフト・ホームズが出現します。彼、マイクロフト・ホームズの人物像が記されています。
ヂィオゲネス・クラブはマイクロフトが会員になっている特別なクラブで、ワトソンと出会います。マイクロフトはホームズのように、ワトソンの特徴を見抜きます。そこに、ギリシャ語通訳者、メラス氏がやってきました。

マイクロフト・ホームズの知り合いのギリシャ生まれのギリシャ語通訳者は、非常に変わった経験を話し出しました。上流階級風の服装をした青年から、仕事でギリシャの友人が会いに来るので通訳してほしいと頼まれます。馬車に乗り込むと、ラティマーという男は鉛を仕込んだ棍棒を出してきます。ギリシャ語通訳の男性は顔に十字の絆創膏が張ってありました。彼ら二人はギリシャ人男性に書類のサインをさせようとしました。

ホームズは英語の話せないギリシャ人、ソフィというギリシャ人女性を探していると日刊新聞の全部に広告を出します。
ホームズはグレグスン警部に頼み家宅捜査を取り付けます。ギリシャから来たばかりの男性、女性、彼らを拉致・監禁している男たちは何をたくらんでいるのか?

海軍条約文書 The Naval Treaty 「ストランド・マガジン」1893年10月号11月号 1889年7月30日~8月1日
ワトソンの結婚後、ワトソンの古い学友から依頼を受けます。彼は外務省高官で、甥である外務省のパーシー・フェルプス氏がホールドハースト卿から機密文書を渡されました。その写をしている時、席を外している間に、文書が盗まれます。ロシアかフランスの外務省に渡ったら大変なことになります。

深夜、窓枠の隙間から器具を押し込み、留め金を押し上げるカチッという音がして依頼人は夜飛び起き、雨戸をあけると、マントを来た男がナイフを持ちうずくまっていました。
   
最後の事件 The Final Problem 「ストランド・マガジン」1893年12月号事件1891年4月24日~5月4日
ホームズは全てを整理し、あらゆる悪事件の背景にモリアーディ大佐、数学に才能を発揮するモリアーティ教授、モリアーティ前教授がかかわっています。
ホームズは極秘で、スイス ライヘンバッハの滝で対決に出かけます。後を追いかけるワトソン。二人とも滝に落ちます。両者は死んだのか?

シャロック・ホームズの帰還 The Return of Sherlock Holmes (1905)

空家の冒険 The Empty House 「ストランド・マガジン」1903年10月号 事件1894年4月5日
1894年の「最後の事件」後、3年間姿を消していたホームズが、再びワトソンの前に現れました。
ロンドンでは、伯爵の次男、トランプ好きの青年閣下(ロナルド・アデア)の頭を遠くから、音もなく撃ちぬける射的の腕を持った者があらわれます。

ワトソンは本を抱えた老人と出会います。それは、死んだと思われていたホームズでした。ワトソンは気絶してしまいます。
ホームズはワトソンの孤独を知っていたようで、悲しみを癒すには仕事が一番だと励まします。そして、以前のように自分の仕事を手伝って欲しいとワトソンを誘います。

当時ラインバッハの滝の事件のあらましをホームズは説明します。モリーティ教授と戦った技「バリッ(日本の武術)」で戦い生き抜いた話をします。モリアーティ教授は岩にぶつかりながら、水中に落ちていきました。そのいきさつを一部始終見ていた一味たち、少なくとも3人がホームズを殺そうと誓っていました。

ホームズが死んだことにすれば、彼らは姿を現すだろうと、モリアーティが滝に落ちる前にホームズは考え、足跡を残さず崖をよじ登りましたが、この状況を監視していた男がいました。よじ登ったホームズは逃げるために急いで降りました。ホームズめがけて石が音を立てて横に落ちてきました。両手で出っ張りの角にぶら下がって、石をよけ、かろうじて崖を降りました。兄マイクロフトに無事を知らせ、3年間身を隠しました。モリアーティ一味の裁判の結果、一番危険な復讐心に燃えている2人が残っていました。

トランプ好きのアデア青年閣下の射殺事件の知らせで、ホームズはロンドンに戻りました。
ベーカー街221Bの向かい側の空家、カムデンハウスに潜んでいれば、反対側にはホームズの部屋が見渡せます。
空家の窓の明かりにうつったシルエットはホームズでした。それはホームズに似せて作られた胸像でした。監視者に注意を向けるためのおとりの蝋人形でした。

セバスチャン・モラン大佐とアデュア青年は二人組んでトランプゲームで大儲けしました。ところがアデュアはモランがインチキをやっているのを発見し、それをばらすと言ったため、モランに射殺されました。

モリアーティより依頼されて作られた空気銃から発射された音は、奇妙な大きなヒュッという音で、割れたガラスは銀の鈴を長く鳴らすような音がしました。空家にやってきた、モラン大佐は銃でホームズの胸像を撃ち抜きました。

それを空家の隅から見ていたホームズは呼子を吹き鳴らします。駆けつけたレストレイド警部はモラン大佐を取り押さえ、大佐はホームズを罵るが、ホームズは「旅の終わりは好いたふたりの巡り逢い」だと言います。銃は特殊な空気銃でした。
この記念の空気銃はレストレイド警部に託されました。

ノーウッドの建設業者 The Norwood Builder 「ストランド・マガジン」1903年11月号事件1895年8月20日~8月21日
朝刊が無限の可能性を提供してくれます。ブラックヒースに住む弁護士の青年ジョン・ヘクター・マクファーレンが息を切らして飛び込んできます。震えて髪がボサボサで青白い若い弁護士です。彼は今朝のデイリー・テレグラフに書かれているノーウッドの建築業者オルデイカー氏殺人の容疑者でした。逮捕にやってきたレストレイド警部に「事情を聞くため、少し時間をくれと」ホームズは頼みます。

マクファーレンの話は、昨日突然オルデイカー氏がやって来て、「君の母をよく知っているので、私の資産を君に譲りたい。」と言い出します。「今夜書類を作りたいので、9時に家に来てくれ。」という。マクファーレンは手続きをすまし、自宅に帰り、翌朝新聞を見ると、オルデイカー氏が昨日の夜に殺され、家は放火されたと載っていました。

ホームズはオルデイカー氏の屋敷を調べていました。その後、レストレイド警部が血のついたマクファーレンの指紋を発見します。
建設業者なので、家に細工はいくらでもできます。若い事務弁護士は建築業者オルデイカー氏を殺害したのか? 解決の糸口はマクファーレンの血のついた指紋でした。

踊る人形 The Dancing Men 「ストランド・マガジン」 1903年12月号事件1898年7月27日~8月13日解決
ノーフォーク州に住む地主ヒルトン・キュービット氏はアメリカ人の妻と二人で落ち着いた生活をしていました。前年、ロンドンで開催されたヴィクトリア女王即位60周年の記念行事を見物するためロンドンに滞在中、シカゴから来ていたアメリカ人女性のエルシー・パトリックと知り合い結婚しました。彼女は、自分の過去について聞かないでほしいと云っていました。キュービット氏は全て受け入れ、登記所で登記して夫婦になりました。

キュービット氏は窓の敷居のところにチョークで「踊る人形」のいたずら書きを見つけました。妻のエルシーは真剣な表情ですが、何も話してくれません。「踊る人形」の絵が心配になりホームズを訪れます。

ホームズとワトソンがノース・ウォルシャム駅に降り立つと、駅長が駆け寄り、ヒルトン・キュービット氏と奥さんが撃たれました。ノーフォーク地方の最も古くて名誉ある家、ライディング・ソープ邸でキュービット氏が奥さんを銃で撃って、自身は自殺しました。
ホームズは「踊る人形」の解読に成功します。(換字式(かえじしき)暗号という。)160種類の暗号記法を分析した、まったく新しい記号でした。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」の暗号解読の類似が引き合いに出されます。

孤独な自転車乗り The Solitary Cyclist 「ストランド・マガジン」1904年1月号発生1895年4月13日~4月20日解決
チャーリンドンにあるカラザス家に住み込みの家庭教師として働いているヴァイオレット・スミス嬢が、突然、ホームズに相談に押し掛けます。

ヴァイオレット・スミス嬢の母娘を探す新聞広告を見て、彼女は弁護士を尋ねます。弁護士を尋ねたときの、もう一人の南アフリカ帰りの男ウッドリというのは露骨に色目を使う危険な人物でした。
南アフリカ帰りの二人の男性の内の一人が、ヴァイオレット・スミス嬢にカラザース氏の屋敷で一人娘の音楽の家庭教師をしてくれるよう依頼します。

契約は年100ポンド(相場より優遇されている額)で、住み込みはではありますが、週一回土曜日午前中に自転車で自宅に帰ります。月曜日にカラザス家に自転車で戻ってきます。駅からカラザス家まで6マイル離れた往復に怪しい男が距離を保ち自転車でつけてきます。
ヴァイオレット・スミス嬢には婚約者がいました。何の目的で家庭教師の自転車をつけるのか?

http://www.bikemuse.jp/knowledge/
1895年ころからセイフティ型自転車ができ、ダンロップの空気入りタイヤを自転車に導入して、悪い道でも走りやすくしたため、高価にもかかわらず、白いシャツを着て、濃い色のスカートをはき、自転車に乗る女性たちが増えmasi
た。ヴィクトリア女王も自分と子供たちのために注文しました。

プライオリ・スクルール The Adventure of the Priory School『ストランド・マガジン』1904年2月号
発生1901年5月16日~5月18日解決
威厳のある私立学校の創立者(ソーニクロフト・ハックスタブル博士)が、北イングランドのマックルトンから、ホームズの部屋に相談に来ましたが、疲労と空腹で倒れ込んでしまいます。学校の寄宿舎に入っている、ホウルダネス公爵(前首相)の一人息子である生徒の失踪事件の事は、出来るだけ公にしないでいましたが、昨晩「グローブ」紙に少し載りました。ホウルダネス公爵は国王陛下の重鎮の一人です。最も重要で、おそらく最も裕福な家臣でしょう。公爵はご子息の居場所を教えて下さる方に5000ポンド(約1億二千万円)、また、ご子息を誘拐した犯人たちの名前を教えて下さる方には他に1000ポンド支払うと、言っておられます。

ドイツ人教師のハイデッガーも失踪していました。彼の自転車も無くなっていました。彼の自転車のタイヤはパーマー製で、車輪の跡には縦の縞が残るはずです。しかし、異なる縞のタイヤ跡が見つかります。これはダンロップ・タイヤで、外側につぎあてがあります。
自転車の車輪がより深く沈んでいる跡が、もちろん後輪ということになります。ホームズとワトソンは捜索中にドイツ人教師のハイデッガーの死体を発見します。

ホームズたちは辺りに牛の足跡を見つけましたが、牛は一頭も見かけませんでした。足跡についてホームズは、パンくずを並べて説明します。歩き(1)、駆け足(2)、はやがけ(3)のできる珍しい牛ということです。

闘鶏亭という宿屋の馬小屋には、二頭の馬がいました。ホームズが一頭の後ろ足を持ち上げると、大声で笑いました。古い蹄鉄ですが、最近つけたものです。蹄鉄は古いが、くぎは新しい。これは古典と言われる事件になります。宿屋の主人、ルービン・ヘイズの態度がおかしい。ホウルダネス公爵の秘書、小粋なジェムズ・ワイルダーが自転車で、闘鶏亭にやってきます。

事件は意外な展開で終わりが来ます。最終的な報酬はホウルダネス公爵の感謝のしるしとして、倍の1万2千ポンドに跳ね上がります。

ブラックピーター Black Peter 『ストランド・マガジン』1904年3月号、1895年7月3日~解決が7月5日
スタンリ・ホプキンズ警部が事件の相談にやってきます。ホームズは1895年には気力、体力ともに最高の状態でした。
アザラシ・クジラの漁師で捕鯨蒸気船の凶暴な船長(ピーター・ケアリー船長:ブラックピーターと呼ばれていた)。彼は母屋から2,3百ヤード離れた場所に自分で木の小屋を建て住んでいました。彼はいつも小屋の事を「キャビン」と呼んでいました。彼は銛で厚紙にピンでとめられたガブトムシのように、漁船の船室をまねた自分の小屋で殺害されました。小屋には、彼が乗っていたシ・ユニコーン号の絵、航海日誌、壁には3本のモリ掛けがあり、一つが殺害に使われたモリでした。テーブルにはラム酒のビンと汚れたコップが二つありました。アザラシ革でできているタバコ用ポーチがあり、内側のたれ蓋には「PC」というイニシャルがあって、強いシップスのタバコが半オンスほど入っていました。

ホプキンズ警部が船長のポケットから取り出したさえない茶色の表紙の手帳には、最初のページには{JHN}というイニシャルと「1883」という年号が書かれていました。次のページには{CRP}という文字、次のページは番号で埋まっていました。証券取引所に上場している株券のリストのようですね。「JHN」は仲買人のイニシャルで、「CRP」は客の名前ではないでしょうか」。「カナディアン・パシフィック・レイルウェイ(カナダ・太平洋鉄道)にあてはまらないでしょうか」 手帳の表紙を拡大鏡で調べると血痕がつていました。

ホームズは現場へ向かいます。事件の後ペンナイフで窓をこじ開けようとつけられた傷を見つけて、現場を見張ると青年が現れます。
これは誰の手帳か?船長は何故殺されたのか?タバコがアザラシの毛皮の入れ物に入っていて、内側にP・Cと書かれていました。 犯人と有価証券はどう結び付くのか?

「犯人は二人」、「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン(恐喝王ミルヴァートン)」Charles Augustus Milverton 
『ストランド・マガジン』1904年4月号 1899年1月5日~1月14日解決
ミルヴァートンは有名な恐喝屋で、高貴な人たちのスキャンダラスな手紙をもとにゆする卑劣な50代男で、頭の大きい丸顔でピクウィクに似ていました。ホームズはさるやんごとなき筋から依頼されました。相談者は結婚を控えた女性で、以前田舎の貴族に書いた手紙をもとに恐喝屋は巨額な額のお金を要求してきました。

ホームズは支払可能な金額にするように求めます。
しかし恐喝王ミルヴァートンは、高額であっても支払わない場合、次のターゲットに高額な要求を支払わすためには、絶対にまけられないといいます。ホームズとワトソンは書類を取り返しに行きましたが、ミルバートンの部屋にヴェールをかぶった背の高い黒い衣装の夫人が入ってきました。そこで意外な事件が起きました。

手紙を取り返しに行ったホームズ達二人の犯人の一人目はちょっと機敏、二人目の特徴は中背で屈強な体格の男で、 四角い顎、太い首、口髭、二人共、目にはマスクをしていました。シャープな男と少しおっちょこちょいの男が犯人らしい・・・?しかし、実際は・・・?

六つのナポレオン The Six Napoleons 『ストランド・マガジン』1904年5月号発生1900年6月8日~解決6月10日
スレード警部は強盗の話を始めました。ケニントン・ロードのモース・ハドソンの店のナポレオンの石膏胸塑像が置いてあったものが一個とあと二個は盗まれ、破壊される事件が起こりました。それらは同じ型から作られたナポレオンの胸像でした。更に異なる店からのナポレオンの胸像も盗まれ壊されました。何故同じような胸像が盗まれ壊されていくのか・・・?コロナ王女の寝室から盗まれた「ボルジアの黒真珠」にまつわる事件かもしれない。

三人の学生 The Three Students 『ストランド・マガジン』1904年6月号1895年4月5日~4月6日 
ホームズとワトソンはある大学町にいました。セント・ルーク・カレッジのヒルトン教授の部屋に忍び込み、奨学試験の問題を盗み見た学生を見つけるように依頼されます。ホームズは犯人を特定します。学生のその後の身の処し方は清いものでした。

金縁の鼻眼鏡 The Golden Pince-Nez『 ストランド・マガジン』1904年7月号 1894年11月14日~11月15日
警部がホームズに助言を求めにやってきます。ヨックスリー・オールド・プレイスという屋敷の主コーラム教授の秘書ウィロビー・スミス氏が書斎で何者かに殺害されました。コーラム教授はアレクサンドリアのイオノドスの特別なタバコを絶えず吸い、部屋が煙いっぱいの謎の教授です。秘書は「先生、あの女です」と死ぬ間際に言い残します。犯人は逃走した形跡がありません。殺人の動機は?教授は何者なのか?残された犯人の物は、女性用の凹レンズのメガネで飛びぬけて度が強い。など特徴を述べるホームズ。教授のタバコをもらいホームズもタバコを盛んに吸い、灰を床にまき散らします。犯人はいったいどこにいるのか?

スリークウオーターの失踪 The Missing Three-Quarter『ストランド・マガジン』1904年8月号 1896年12月8日~12月10日
依頼人シリル・オーヴァートン氏はケンブリッチ大学ラグビーチームの主将で、体の大きさが試合に影響する一番のスポーツはラクビーです。ケンブリッジの右ウイングのスター選手である、ゴドフリー・ストーントンがオックスフォードとの定期試合の前に失踪してしまいます。ゴドフリー・ストーントンの伯父のジェームズ卿の財産は事件に関係するのか?
主治医アームストロング博士の馬車の行先がつかめないので、ホームズは、犬(ポンペイ)を使って馬車を追跡します。何故大事な試合前に失踪したのか?

アビ屋敷 僧坊荘園 The Abbey Grange 『ストランド・マガジン』1904年9月号1897年1月23日
冬の終わりの朝3:30に友人警部ホプキンズから依頼が舞い込みます。強盗団が出没しているケント州マーシャムにあるサー・ユーステスの屋敷から発信されています。
殺害されたのは当主のユーステス・ブラックンストール卿で、泥棒に傷害を受けたオーストラリアから来た妻のメアリが、その強盗に夫が殺されたと証言しました。ホプキンズ警部はランダルの3人組による連続強盗殺人と推測します。

夫はアルコールが入ると人が変わる人物でした。家には夫人がオーストラリアから連れてきた乳母と一緒でした。
強盗団の盗んでいった品物の不自然さ、三つのワイングラスの一つにワインの滓(オリ澱)が残っていました。埃をかぶった瓶には三分の二ワインが残っていました。色が染みこんだコルクがありました。コルクを抜くのに使われたのはナイフについているコルク抜きです。使われた二つのグラスと三番目のオリの入ったグラス。これからホームズは推理を働かせます。ちぎれた呼び鈴の紐に不信を抱き、捜査を見直します。ホームズとワトソンの、犯人への大岡裁きが、読者の心を打ちます。
    
第二の染み(第二の血痕) 第二の汚点(二つの不名誉)The Second Stain 『ストランド・マガジン』1904年12月号
1886年10月12日~10月15日
サッセクス・ダウンズで養蜂の研究に入ったホームズ。人に注目されることは不愉快になってきました。そして強い態度で、ホームズは、これ以上事件簿を公表しないようにと要求してきた事件でした。

欧州担当大臣(トレローニー・ホープ)、首相が国際問題化と思われた事件(外国の君主から送られたイギリスの植民地政策に、抗議する私的な文書)の内容が余りにも不穏なため紛失した文書が表に出るとヨーロッパに混乱を起こしかねないので、ホームズに捜査依頼(回収が秘密裏に行われる)がきます。
欧州大臣のホワイト・ホールテラスの自宅(寝室の鍵付書類箱)からなくなっています。その文書の存在を知りうる人は限られていました(閣僚以外には2~3人だった)。
ヨーロッパ担当相の夫人ヒルダが人目を忍んでホームズに会いにやってきて、夫の依頼が何なのか、依頼内容が解決されなければ夫の立場は今後どうなるのかを、思いつめた様子でホームズに尋ねます。

パリからの新聞によれば、金銭目的として犯人と考えられる三人の一人エドワルド・ルカスがウエストミンスターで、ナイフで殺害されていました。殺害された妻はクレオール出身でした。エドワルド・ルカス殺害現場の絨毯に血が染みこんでいます。 しかし、敷かれていた絨毯に染みの下の木製の床には対応する染みがない。ホームズは床に四つん這いになり爪を立てて床に探し物をします。別の場所に「第二の染み」がありました。そこには紛失した文書が隠されていたはずです。文書はどこに行ったのか?犯人は誰か?

この短編は発表から3年後の1907年(明治40年)「二つの汚点(しみ)」のタイトルで翻訳され、『静岡民友新聞』に12回の分割で掲載されました。

最後の挨拶 His Last Bow (1917)

ウイルステリア・ロッジ Wisteria Lodge 発生1890年3月24日~3月29日解決
第一部ジョン・スコット・エクルーズ氏の奇妙な体験 
「ワトソン、君のことは、もちろん、文人だと、みなも一目置いているのだが」とホームズは言いました。「そういう君なら{グロテスク}という言葉をどう定義するかね」「奇怪な、あるいは、異様さが目立っている、かな」と、答えてみました。「それだけではないだろうね」と、彼は言いました。「悲惨な、恐ろしいといった意味合いが、当然その言葉には含まれています。」
奇妙な体験の電報を読み、保守的で堅実な英国人の見事なお手本のジョン・スコット・エクルーズ氏が相談にやって来ます。友人の食卓で出会ったスペイン人(ガルシア)と非常に親しくなり、屋敷に一泊するよう招待されました。招待された場所はウイルステリア・ロッジでした。

ジョン・スコット・エクルーズ氏と館の主人ガルシアと夕食の終わり頃に、不吉な手紙が届きます。翌朝起きてみると、家は誰もいなくなっていました。 不信に思いホームズに相談にやってきます。そうして典型的なイギリス男性が奇妙な体験を話しはじめました。
ベインズ警部がサリー州、イーシャーの村に同行してくれました。宿はブル亭で、ウイルステリア・ロッジに向かいました。
ウイルステリア・ロッジの見張りの巡査、ウォルターズは驚き、震えながら悪魔が出たとしか思えません。二時間ほど前の事です。下の窓ガラスの向こうに、こちらをじっと見ている顔が、・・・本当に恐ろしくて、夢に出てきそうです。グロテスクな顔に巡査はおびえます。

ウイルステリア・ロッジの台所の食器棚の後にろうそくの明かりをかざしてみせます。それは皺だらけで、縮んでしまって、しなびて、もともと、いったい何だったのかは、まったく不明の代物でした。流し台には、羽が付いたままの状態で引き裂かれた、白い大きな鳥の足と体の破片が、そこいら中にちらばっていました。ホームズが切り取られた首の下に垂れた肉垂の部分を指さしました。「白の雄鶏ですね」と彼は言いました。バケツには大量の血が入っていました。さらに警部は、黒こげの小さな骨が山になった大皿をテーブルから取り上げました。(グロテスクな情景です)

第二部サンペトロの虎 
オックスショットから一マイルほど行った先、悲惨な殺人現場から半マイル離れていない場所に、大邸宅のハイ・ゲイブル荘があり、館の主人であるヘンダースン氏だけは、どう考えても尋常ではありませんでした。秘書であるルーカスとは、深い信頼関係で結ばれた親しい友人でもあり、この家の要になっています。ヘンダースンには、11歳と13歳の娘がいて、この娘には女性家庭教師で、40歳ぐらいのイングランド女性のミス・バーネットが雇われていました。

ヘンダースンの正体は「ドン・ムリーリョといい、あの(サン・ペドロの虎)と呼ばれていた男です」と警部は答えます。
スペイン人のガルシアは殺害されていました。殺害の裏に、祖国の圧政が絡んでいました。スペイン人に連絡の手紙を書いた圧政者のもとに勤める家庭教師は、ジャコビアン様式の(ジェイムス一世時代の装飾性豊かな)屋敷に雇われていました。その主人はヘンダースンことドン・ムリリョ「サンペトロの虎」という恐ろしい人物でした。

ジョン・スコット・エクルーズ氏が宿泊した朝、館から誰もいなくなり、ガルシアの死の原因は?ドン・ムリリョこと「サンペトロの虎」との関係は?

ボール箱 The Cardboard Box 「ストランド・マガジン」1893年1月号1889年8月31日~9月2日
短編14番目の作品
8月のうだるような、ロンドン。新聞に載った記事は、郵便物として送られていきたボール箱の宛名は50代のミス・S・カッシングと男性の書いた文字で書かれていました。 クロイドン クロス街で静かに暮らしていた(ミス・スーザン・カッシング)は、数年前、三人の若い医学生を下宿させていました。彼らが騒々しく不規則な生活だったため、彼らを追い出しました。彼らが悪ふざけで人間の耳を(解剖室の遺物)彼女に送り、怖がらせたのではないかと、いう見解が有望です。レストレード警部により精力的に捜査が進められています。

ホームズは下宿の夫人に甘露煙草の半ポンドのボール箱を見せてもらうと、紐にタールが付いています。荒塩で埋った2つの耳が入っていました。小さい耳にはピアス穴があり、もうひとつは男性の耳でした。解剖される耳と違い防腐処理されていませんでした。
三人姉妹のスーザン・カッシングは2か月前に別居した妹のサラ(おせっかいで気難しい)と、今は連絡が取れない下の妹メアリー。メアリーは船の客室係(ジム・ブラウナー)と結婚していました。サラはジム・ブラウナーと非常に親しかったので、リバプール行っていました。しかし、後でジム・ブラウナー、メアリー夫妻と喧嘩別れをしてしまいました。 

それからホームズはトテナムコートロードのユダヤ人古物商から55シリングでストラディバリを買い、パガニーニの話を始めました。
ミス・スーザン・カッシングの耳の形と、ボール箱の耳の形が一致することに、ホームズは気づいていました。
ミス・スーザン・カッシングの妹の名前がミス・サラ・カッシングです。
ジム・ブラウナーが小包にサラの住所を書く機会があれば、間違いなくサラの古い住所を書いただろう。宛先はミス・スーザン・カッシングではなく、ミス・S(サラ)カッシングです。

レストレード警部からジム・ブラウナーを逮捕したとの手紙がホームズに届きます。

「俺はメアリー(29歳)と結婚しました。彼女を愛していました。俺たちはサラに一周間来ないかといった。それが、ひと月、ひと月と増えていった。」
「サラ(33歳)は俺を愛していた。俺はサラを拒否した。それからサラは俺を嫌うようになった。家にサラが入って来たのが事件の発端です。愛するメアリーが俺を疑い出した。サラとメアリーは一緒でした。サラがメアリーの心を毒していったのがわかる。」
「そこに割り込んできたのが、アレク・ヘアベアン。奴が俺の家に来たのはサラに会いに来るためだった。」
「アレク・ヘアベアンには二度と俺の家の敷居をまたがせないとサラに言うと、サラは俺の家を出て二丁ばかり離れた家を借り、水夫を下宿させた。アレク・ヘアベアンもそこにとまっていた。メアリーはサラの借りている家に出かけ、奴とサラと一緒にお茶を飲んだりした。サラはこれ以上リバプールに住んでいられないと、クロイドンの姉の家に行ってしまった。姉とのクロイドンでの生活は2か月と持たなかった。俺はメイデイ号で出発したが、樽が一つ緩み、板が一枚外れた。それで港に12時間戻ることになった。俺は船を後にして、家に戻った。途中馬車に女房とアレク・ヘアベアンが一緒に乗っていた。」ここから事件が起きました。

赤い輪 The Red Circle 「ストランド・マガジン」1911年3・4月号 1902年9月24日~9月25日
下宿の女主人ウォレンがホームズに相談に来ます。
下宿の最上階の貸し部屋(一週間に50シリングが相場の部屋)に、条件を聞き入れてくれれば週5ポンド出すという下宿人。10ポンドだすから、これから、二週間ごとに払うといいます。

その条件とは、下宿人を完全に一人にしておくこと。決して部屋に入らないこと。
彼は最初の夜出かけたことを除き、10日間部屋から出ません。彼がベルを鳴らすと食事をドアの前の椅子に置き、終わればベルで知らせ、ドアの椅子に置いてあり、ほしいものは鉛筆書きの活字体で単語(筆記体でなく:マッチ、デイリーガゼット)をメモに書き知らせる。
しばらくして、ウォレンの夫が部屋を借りた男と間違えられて襲撃されます。
ホームズは物陰から下宿人を見ます。新聞で外部から下宿人と連絡を取り合っていることを調べます。ローソクの火の点滅で信号を送っていました。

ブルース・パーティントン設計図 The Bruce-Partinton Plans 『ストランド・マガジン』1908年12月号 
1895年11月21日~11月23日
ウリッジ兵器工場の職員のカドーガン・ウエスト(27歳、独身)の事で相談があると兄のマイクロフトからの電報がきます。
月曜日の夜、カドーガン・ウエストは婚約者と劇場に行く途中、濃霧の中いなくなり、火曜日にロンドン地下鉄のオールドゲイト駅近くの路線で列車から落ちたような状態で死体となって発見されました。男のポケットには切符がありませんでした。

この不幸な青年のポケットには、ブルース・パーティントン型潜水艦の設計図がありましした。原本10枚の書類の中で7枚しか彼のポケットに残っていませんでした。残りの3枚の設計図が重要でした。ウリッジ兵器工場の上級職員(サー・ジェイムズ)が金庫の鍵を持っていた二人の一人でした。彼は事件当夜ロンドンに向かい、シンクレア提督を訪問していたと、弟のヴァレンタイン・ウォールター大佐が、ウリッジの事務所を出た事を証言しています。

主任製図士、シドニィ・ジョンスンは信頼のおける人物で、二番目の地位にあります。下級設計技師は毎日、問題の設計図を実際取り扱っています。事件当夜、主任設計技師シドニィ・ジョンスンが最後に鍵をかけました。中に入り書類を盗み出すには、三つの鍵が必要でした。限られた人しか鍵は開けられなかったはずです。駅からカーブしている切り替えポイントのたくさんある線路をレストレイド警部と地下鉄代表とで、ウエストの死体があった場所を調べました。

設計図の公的管理者、書類の鍵を持つ一人上級職員(サー・ジェイムズ)は責任を感じて自殺します。ホームズは兄にロンドンで活躍している諜報部員の情報を得ます。ロンドンにいた男が一人いました。コールフィールド・ガーデンズは、ロンドンのウェスト・エンド地区によくみられる、正面に出っ張りがなく、柱廊式ポーチが付いた、ヴィクトリア朝中期の典型的な建物の家並みのひとつでした。地下鉄と鉄道の幹線の一つが交わる点にあったっているため、地下鉄の列車は、ちょうどその場で、頻繁に、数分ほど停車して待機するということです。

犯人たちは、デイリー・テレグラフ私事広告欄で連絡を取り合っていました。
設計図を持ち出したのは誰か?青年を殺した犯人はだれか?

瀕死の探偵 The Adventure of the Dying Detective 『ストランド・マガジン』1913年12月号 1887.11.19/1913.12
ハドソン夫人が、ホームズとの共同生活を解消して2年後、結婚したワトソンのところに訪れ、ホームズは病に臥せって死にそうに見えると伝えた。伝染病(スマトラ島のクーリー病)の恐れがあるとワトソンが近づくと、ホームズから接触感染の恐れがあると制止されました。ホームズはどの医者にも病気を見せようとしません。ワトソンは困惑しながら、ホームズは、ワトソンにカルバートン・スミス(スマトラの住人で、今ロンドンに滞在中、この病気は彼の農場で流行した)からこの病気を勉強するので彼を連れてきてくれと頼みます。

ワトソンはカルバートン・スミスに門前払いされ、無理にスミスの部屋に入り込み、ホームズが溺死の状態なので、見てほしいと頼みこみます。スミスは診察を承知しました。ワトソンは診察に立ち会わず、ベッドの近くの隙間に身を隠していました。ホームズはスミスと対立していた甥の死んだ事件を忘れるから、助けてほしいと懇願します。スミスは病の原因は自分の送った象牙の小箱にあると告げます。小箱には開けた者を傷つける仕掛けがあり、甥にもホームズにもその傷から病に感染させたのだといいます。部屋にモートン警部が入ってきます。スミスを、ワトソンの証言で甥の殺害とホームズ殺人未遂の容疑で逮捕しました。

レディ・フランシス・カーファックスの失踪 The Disappearance of Lady Frances Carfax
「ストランド・マガジン」1911年12月号 1902年7月1日~7月18日
レディ・フランシス・カーファックスがローザンヌのホテルを発ってから5週間過ぎました。かつての家庭教師が連絡をつけようとしても連絡が取れなくなり心配してホームズに相談しました。ミス・ドブニー(家庭教師)以外に彼女の行方を探す手がかりは、彼女の銀行口座でした。使用したのはレディ・フランシスのメイドでした。ワトソンが捜査に出向きます。

レデイ・フランシスに粗野な男が近づきます。南アメリカの伝道師、宗教感情をかきたてることで、孤独な女性をだますシュレジンジャー博士尊師はオーストラリアの悪党ピーターズでした。ワトソンがメイドに聞き込みしていた時、粗野な男性を見つけけんかとなります。仲裁をしたフランス人労働者はホームズの変装でした。粗野な男はレディ・フランシスに好意を持っていましたが、レディ・フランシスは彼から逃れていました。ホームズは、悪党ピーターズはロンドンに来ていて、レディ・フランシスの持っていた宝石が質に入っている知らせを受けて、レディ・フランシスに危険が迫っていると知ります。埋葬用の柩の大きさに気が付き、救出に成功します。


悪魔の足 The Devil's Foot 『ストランド・マガジン』1910年12月号 1897年3月16日~3月20日
ホームズは休養のため、ポルデュー湾近くの小さな家にきていました。
コーンウォール半島の最先端にあるマウンツ岬が見渡せました。そこには過ぎ去りし種族の痕跡がありました。
ホームズはそこで以下のような考えを記しています。ケルト人の古代に話されていた言語のひとつ、古代コーンウォール語、カルデア語(シリア、メソポタニアで話されていた)と同族ではない。フェニキア(シリアあたり)の錫商人にゆらいするものという説を展開しています。その地で、ホームズは考古学に通じた司祭と知り合いになりました。

独身の司祭の家には、無口な同居人がいました。司祭は同居人が経験した奇妙な事件を語り出しました。二人の兄弟とその妹を恐怖におとしめられる事件でした。妹の死、発狂した兄弟。司祭の家の同居人が死んでしまいます。
中央アフリカ帰りの博士とは。“悪魔の足の根”という毒の謎、兄弟妹に何が起こったのか?

最後の挨拶 His Last Bow  「ストランド・マガジン」1917年9月号 1914年8月2日
三人称で書き始められます。波風作りの屋敷に4年前から住んでいる、イギリスに溶け込んだドイツ秘密諜報部員がフォン・ボルクという男は非凡な男でした。彼が会っているのは男爵で、ドイツ公使館書記長(バロン・フォン・ハーリング)です。彼の車は百馬力のベンツで、田舎道をふさいで飛ぶようにロンドンに向かいます。男爵は帰り際に言います。諜報部員の家政婦のマーサは「大英帝国の化身だな」 「完全に自分のことにかかりきり、ゆったりと眠気を誘う雰囲気が」といい、男爵は贅沢な大型車のクッションにもたれ帰り道、反対からやってくる小さいフォード車を踏み潰しそうなりました。男爵が帰り、訪問者の車が諜報部員の屋敷にやってきます。

諜報部員が集めた情報はすでに古くなり、新たな情報をフォン・ボルクは待っています。その内容の暗号は、ラジエーターは戦艦、オイルランプは巡洋艦、点火プラグが海軍という暗号書でした。
ドイツ諜報部員の情報屋の名は、オルタモント(アイルランド系アメリカ人)です。オルタモントはワインにうるさく、トカイと呼ばれる私のワインを好きになりました。
ホームズは情報を奪回できるか?

シャロック・ホームズの事件簿 The Case-Book of Sherlock Holmes (1927)

高名な依頼人 The Adventure of the Illustrious Client 「ストランド・マガジン」1925年2・3月号
1902年9月3日~9月16日 同じ年の9月24日には「赤い輪」事件が発生しています。

ホームズは前日来た手紙を見せました。仲介者の大佐が、依頼人の名は明かせないというとホームズはその依頼を断ります。そこで、大佐は悪名高き二枚目のグルーナー男爵から、ド・メルヴィル将軍の娘ヴァイオレット・ド・メルヴィルの危機(結婚から)を救おうとしていると語ります。依頼者は将軍の友人で、ヴァイオレット嬢を子どものころから知っていて心配していると述べます。

男爵に昔、捨てられた復讐心に燃えた女性を探し出し、協力者として手ごわい相手に立ち向かいます。彼女の情報は貴重でした。
東洋美術の陶磁器に詳しい男爵に近づくために、ワトソンに勉強を依頼します。ホームズから渡された価値ある壺を持ち、ワトソンが男爵を訪問すると、男爵はその壺を価値あるものと鑑定しました。二枚目の男爵はワトソンを試そうと、質問をしてきます。
聖武天皇について知っていることと、奈良の正倉院について天皇がどう関係しているか?おやおや、これでお困りですか?少し、北魏王朝について話してくれませんか、それと、陶磁器の歴史における位置づけについてと・・・。

協力者の女性が・・・。ホームズはその男爵から、将軍の娘を目覚めさせることが出来るか?
「高名な依頼人」は英国王エドワード7世とされています。

白面の騎士 The Adventure of the Blanched Soldier 「ストランド・マガジン」1926年11月号 1903年1月7日~1月12日
ホームズ自身が事件記録を書くことになります。記録によると、ボーア戦争終結直後、ジェームズ・M・ドッド氏がホームズの元を訪れます。戦火を生き抜いた戦友ゴドフリー・エムズワーズ。その実家に戦友を尋ねると、世界を旅行中でいないと言われます。しかし、戦友の居場所を聞き出すため、実家を訪れ宿泊させてもらっていると、窓から真っ白な顔をした戦友がガラス越しに表れ消えます。
  ホームズに相談して、事の真相を調べてもらいます。
  彼は恐ろしい感染症にかかり、隔離されていました。

マザリンの宝石 The Adventure of the Mazarin Stone 『ストランド・マガジン』1921年10月号 1903年夏
ワトソンがホームズの下宿を訪れると、給仕のビリーが案内してくれます。消えた黄色のマザリンの宝石を探そうと首相、内務大臣、我慢ならない閣下が相談に来ます。
部屋にホームズの複製の像がありました(「空家の冒険」で使ったホームズの蝋人形)。トリックとして当時できた蓄音機からホームズがかなでるバイオリンの音を録音して、実際に演奏しているようにバイオリン演奏を響かせます。すっかりホームズが演奏しているものと思い込み、犯人のシルヴィアス伯爵と手下のサムは宝石のありかの内輪話を始めます。
その内容を聞いていたホームズは、シルヴィアス伯爵から取り返した宝石に、ホームズは、我慢ならない閣下に悪ふざけして宝石を帰す。
  *マザリンとはフランス・ブルボン朝の宰相ジュール・マザランのことです。
  *書き手がワトソンではなく、三人称になっています。
ホームズが演奏しているバイオリンの音楽を録音再生できる装置があったようです。

三破風館 The Adventure of the Three Gables 『ストランド・マガジン』 1926年10月号 1903年5月26日~5月27日
三破館の買い取りには条件が付き、提示された金額はいい条件ですが、家にあるものは一切持ち出せないという怪しげな条件でした。
家の持ち主のメイバリー夫人がホームズに相談をします。ホームズに、捜査妨害の脅しが入ります(黒人ボクサーが押し掛ける)。
ホームズはメイバリー夫人に注意しておきましたが、三破館に泥棒が入り、夫人の今は亡き息子(ローマの大使館員だった)の家に届いた荷物から盗まれたものがあったのです。
家を買い取るのは、どのような理由が隠されているのか?
  
  *破風板は屋根の妻側に山形に付けられた板の事。端をくるりと取り巻き、風雨の建物への吹き込みを防いでいます。

サセックスの吸血鬼 The Adventure of the Sussex Vampire 『ストランド・マガジン』1924年1月号
1896年11月19日~11月21日
サセックスに住む、ワトソンの昔のラクビー仲間の旧友ロバート・ファーガスンから相談を受けます。
5年前に再婚した南米ペルー出身の優しい妻が、二人の間にできた赤ちゃんの首から血を吸い取るところを目撃しました。ワトソンの友人は驚きホームズに捜査を依頼します。前妻との間にできた15歳のジャック少年は、子どもの頃事故にあい、ハンディを背負ってしまいました。父はその少年を溺愛していました。
ペルーから来た、後妻の吸血騒動の真相究明にホームズが乗り出します。

三人ガリデブ The Adventure of the Three Garredebs 「ストランド・マガジン」1925年1月号 1902年6月26日~6月27日
ホームズがナイトの爵位を断った月
ホームズは新聞を読みながら、ガリデブという男を見つけることが出来ると、お金になるそうです。ワトソンは電話帳を広げ、ガリデブという名を探してみると、この奇妙な名前がしかるべきところにありました。ホームズは電話帳を取り上げ、ガリデブ、Nとその住所を読み上げます。その時、アメリカから来たジョン・ガリデブ弁護士の名刺がハドソンさんからもたらされます。
ジョン・ガリデブはネイサン・ガリデブから手紙があったかとホームズに聞きます。依頼したのはジョン・ガリデブでした。三人のガリデブがそろえば500万ドルを三人で使えるといいます。

ネイサン・ガリデブが集めているものはそんなに、価値のあるものではありませんでした。
バーミンガムの地方新聞に載ったハワード・ガリデブ氏が見つかります。しかしその広告内容がイギリスではない、アメリカ独特の表現を使っています。そうしてジョン・ガリデブは、ネイサン・ガリデブをバーミンガムに契約に向かわせます。
3年前から住んでいるネイサン・ガリデブの部屋にはどのような秘密があるのか?

アメリカ人のジョン・ガリデブの正体をホームズは調査します。彼は別名を殺し屋エヴァンズといい、シカゴの有名な偽金作りプレスコットと喧嘩になり射殺したことで、1901年まで服役していたことがわかりました。何を目的にネイサン・ガリデブに近づいたのか?

ソア橋 The Adventure of the Creeping Man 『ストランド・マガジン』1922年2・3月号、1900年10月4日~10月5日
金鉱開発に成功したアメリカの上院議員であるネイル・ギブソンの妻が射殺されました。屋敷から半マイル離れたソア橋に倒れたブラジル出身の夫人の頭が打ち抜かれていました。その屋敷に住む、若くて美しい家庭教師グレイス・ダンバー嬢が疑われているので、疑いを晴らしてくれとネイル・ギブソンから依頼が来ます。
射殺現場の橋に残されたトリックを明かすホームズ。

這う男 The Adventure of the Creeping Man 「ストランド・マガジン」1923年3月号 1903年9月6日~9月22日
ホームズはワトソンに「都合がよければすぐこられたし、都合悪くてもやはりこられたし」と電報を打ちます。
ケンフォード大学のプレスベリー教授の助手トレヴァー・ベネット氏から依頼がありました。
優秀で、お金があるケンフォード大学のプレスベリー教授は裕福な同僚の教授の娘である、若い女性と婚約しました。しかし、その後、プレスベリー教授の秘書と娘は教授の意外な行動に戸惑います。老教授の飼い犬が2度も教授に咬みつきました。教授の這うような歩き方には、不思議な秘密が隠されていました。

ライオンのたてがみ The Adventure of the Lion's Mane 「ストランド・マガジン」1926年12月号1907年7月
私(ホームズ)がサセックスの小さな家に引退した後に起きた事件です。私は、薄暗いロンドンで長い年月を過ごしていた間、ずっと切望し続けていた夢を実現し、探偵業から完全に足を洗って、自然の中で穏やかな生活を送るようになっていました。と一人称で書き始められます。

1907年7月末の暴風雨のあと、ホームズが懇意にしている人物で、近くで学校を運営しているハロルド・スタックハースト氏と出会います。スタックハースト氏は近くの海岸へ泳ぎに行くところで、先にマクファーソン青年が行っているはずだと言いました。海岸に行くと、マクファーソンがよろめきながら歩いて来て、ばったりと倒れてしまいました。すでに死に瀕していましたが、死の間際に「ライオンのたてがみ」という言葉を残します。

浜辺での友人の死。更に、浜辺での二人の青年の死体、更に彼の愛犬も死んでいました。死体には特徴のある傷がありました。 ライオンのたてがみを持つ衝撃的な生き物が事件のカギを握ります。

 サイアネアクラゲ{学術名:サイアネアクラゲ}和名ではキタユウレイクラゲ


覆面の下宿人 The Adventure of the Veiled Lodger 「ストランド・マガジン」1927年2月号 1896年10月
1896年の終わり、ホームズは下宿屋をやっているメリロー夫人から、夫人の家に7年間ひきこもっている覆面の下宿人ロンダー夫人の顔を一度ちらっと見たとき、「これで私がなぜ覆面をとらないかわかったでしょう」ロンダー夫人は言いました。
彼女は夜間に“人殺し、人殺し” と叫んだことがありました。もし厄介な問題を抱えているなら、相談するといいロンダー夫人にアドバスをして、ホームズを紹介しました。

彼女は、ライオン使いの妻でした。ロンダー夫人はメリロー夫人に、アバス・パーバ(バークシャーの近くの村)の事件の事だと、ホームズさんに云ってちょうだい。ホームズは忘備録を読み、アバス・パーバの惨劇を読み返します。
猛獣使いのロンダーは後頭部を叩きつぶされていました。ライオンの檻の近くにロンダー夫人が倒れていてライオンが彼女の顔を引き裂いていました。

怪力男レオナルド、ピエロのグリッグスなどが集まってきました。 ライオンは解き放たれ、棍棒で殴られた夫の頭からの血の匂いをかぎつけロンダー夫人に襲い掛かります。卑怯者の男は逃げ去ります。夫人の顔にはライオンが咬んだ醜い跡が残りました。
バークシャー警察のエドモンズがこの状況の説明に気になる点がありました。大柄なロンダーは酒に酔うと威張り散らしていました。
ロンダーを殴り殺した卑怯者の人間は、溺れ死んでいました。問題が一段落しました。
その後、勇気ある婦人から、郵便で届けられた小さな青いビン(Prussic acid)がホームズに送られてきます。

ショスコム・オールド・プレイス The Adventure of Shoscombe Old Place 「ストランド・マガジン」1927年4月号
1902年5月6日~5月7日
ドイルが執筆した最後のホームズ作品。
競馬ガイドブックを見るワトソン。ホームズはワトソンからショスコム・オールド・プレイスについての詳しく説明を受けます。依頼の手紙は、ショスコム荘に住むサー・ロバート・ノルベルトン卿に雇われているジョン・メイソン主任調教師がサー・ロバート卿は気が狂ったと思いますと相談に来ます。

ロバート卿はダービーにショスコム・プリンス号を出走させますが、その馬が勝利しないと彼の財産は現金化できず、借金が返せません。ショスコム・オールド・プレイスはショスコムパークの真ん中にあり、ショスコム療育場と訓練施設があります。債権者に追われるサー・ロバート・ノルベルトン卿は危険な男、現在困窮状態です。

彼は姉の未亡人レディ・ビアトリスと暮らしています。地所、財産は彼女の亡くなった夫のものです。彼女の地代権は一代限りで、彼女が死ぬようなことがあれば、債権者が押し寄せてきます。彼女は、馬好きだったのにこの一週間興味を示さなくなりました。姉の飼っている、ショスコム・スパニエルは、イングランドで一番の高級犬種です。ショスコム・オールド・プレイスの女主人の特別自慢の種です。彼女は愛犬を人に預けてしまいました。

ロバート卿は夜な夜な地下室の納骨堂に出入りします。彼は地下室で焼けた古い大腿骨を掘り出しました。
ホームズは愛犬を借り出してきて、ショスコム・オールド・プレイスの女主人の馬車に愛犬を放します。愛犬は何故か女主人に吠え、咬みつきます。サー・ロバートの姉は長い間水腫を患い、一週間前に死亡していました。彼のダービー馬は?その賞金は?

隠居絵具師 The Adventure of the Retired Colourman 「ストランド・マガジン」1927年1月号
1898年7月28日~7月30日
依頼人は美術器材の製造業の副経営者のジョサイア・アンバレー。引退後、20歳下の女生と結婚しました。彼はちょっとした資産家でした。 アンバレーは妻と消えた資産を探してほしいと相談にホームズを訪れました。
彼はチェスが趣味でした。彼の家の近くの若い医師アーネスト博士がチェスをするため、よく遊びに来ていました。夫人と親しくなるのは自然の成り行きでした。妻は若い医師と、老人の現金と有価証券を持って、行方不明になりました。二人はどこへ行ったのか?



参考図書 河出文庫 シャロック・ホームズ全集 
     コンプリート・シャロック・ホームズ http://www.221b.jp/
登場した警部、
グレゴリー警部:白銀号事件
トバイアス・グレグスン警部 「緋色の研究」、「ギリシャ語通訳」、『最後の挨拶』中の「ウィステリア荘」「赤い輪」
・コヴェントリー巡査部長「ソア橋事件」
アセルニー(ピーター)・ジョーンズ警部 「赤毛連盟」
パタースン警部「最後の事件」
バードル警部 「ライオンのたてがみ」
フォーブズ刑事 「海軍条約文書」
フォレスター警部 「ライゲート事件」
ブラッドストリート警部 「「唇のねじれた男」「青い紅玉」「技師の親指」
ベインズ警部 「最後の挨拶』の「ウィステリアロッジ」
スタンリー・ホプキンズ警部 「ブッラクピーター」「金縁の鼻眼鏡」「アベイ屋敷」「スリー・クォーターの失踪」
マキノン警部 「隠居絵具師」
アレック・マクドナルド警部「恐怖の谷」でメイスン警部に要請される。
ホワイト・メイスン警部「恐怖の谷」でアレック・マクドナルド警部に協力を要請
マーティン警部 「踊る人形」
モートン警部 「瀕死の探偵」
ランナー警部 「入院患者」

スコットランドヤードのレスレイド警部 「緋色の研究」、「ボスコム渓谷の惨劇」、「花嫁失踪事件」、「ボール箱」、「バスカヴィル家の犬」、「空き家の冒険」、「ノーウッドの建築士」、「犯人は二人」、「六つのナポレオン」、「第二の汚点」、「ブルース・パーティントン設計書」、「レディ・フランシス・カーファックスの失踪」、「三人ガリデブ」



漱石の倫敦留学時代とシャーロック・ホームズ

漱石が書いた「倫敦塔」の内容は、ホームズが活躍した時代と重なる。
文庫には他に「カーライル博物館」(カーライル(トーマス・カーライル、イギリスの歴史、評論、思想家)博物館、漱石は博物館に行き、説明係のばあさんとの会話など書かれています。

他に「幻影の盾」、「薤露行(かいろこう)」などの関連文がある。

「薤露行(かいろこう)」アーサー王物語 国王牧歌アルフレッド・テニスンの詩でアルバート公に献上されました。アルフレッド・テニスンの「国王牧歌」の「ランスロットとエレーン」のなか、エレーンの死、ギニヴィアは透きとおるエレーンの額にふるえたる唇をつけつつ・・・一滴の熱き涙はエレーンの冷たきほほに・・・。
十三人の騎士は目と目を合わせた。
倫敦塔
漱石は二人の少年の幻影 (エドワード4世の王子(エドワード5世)と弟のヨーク王リチャード)を見る。血塔(Bloody tower)を抜けて、白塔はもっとも古い塔です。リチャード二世1066年にイングランドを征服したウィリアム1世が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、本体は約20年で完成しました。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成させた。ロンドン塔には、世界最大級の大きさであるワタリガラスが一定数飼育されています。ワタリガラスは大型で雑食の鳥で、1666年に発生したロンドン大火が出た大量の焼死者の肉を食らうカラスが多くやってきました。チャールズ2世が駆除を考えていた所、占い師に「カラスがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国が滅びる」と予言され、それ以来、ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まったとされる。

逆賊門(トレイターズ・ゲート)上にはトマス塔、この門から船で輸送され塔に入る。このテムズ川は三途の川で、門は黄泉に通じる門と・・。血門はバラ戦争で多くの人を雄平しました。白塔はもっとも古い塔。リチャド二世(シェイクピア)リチャード二世はボリングブルックによってポンフレット城に幽閉される。ロンドン塔の歴史はボーシャン塔の歴史です。
ロンドン塔にまつわる事件

 リチャード二世の暗殺


 ロンドン塔に閉じこめられるエドワード5世とヨーク公リチャード 


1554年王女ジェーン・グレイ(タワー・グリーンで非公開に斬首されました。18歳でした。)

また「永日小品」は文鳥・夢十夜の文庫に収められています。

シャーロック・ホームズの活躍した時代の日本
1868年(慶応3年)10月23日大政奉還、王政復古

イギリスへの留学を果たした、長州五人。遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)、伊東博文、志道多聞(井上馨)、山尾傭三

1871年(明治4年)維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度を研究するため岩倉使節団の副使として渡米し、サンフランシスコで伊藤は演説を行う。

 大久保利道、山口尚芳、木戸多孝牟


当時から日本でも山高帽をかぶっていた人もいました。ハンチングはロシア版のシャロック・ホームズでイゴール・ペトレンコ(シャッロク・ホームズ)が、がかぶっているシリーズもあります。

1894(明治27年)~1895年日清戦争 
漱石は明治26年に大学を卒業(26歳)がロンドンに留学していた時(1900(明治33年33歳)~1902年)。1900年に武術集団の秘密結社(義和団)が当時の中国清政府を助けようと武装排外運動を起こしました。清政府(西太后)は欧米列国(北京の公使館、天津の租界)を攻撃します。義和団の乱が満州に及び、ロシアが満州を占領。ドイツの思惑と、イギリスの思惑で日露戦争(1904年~1905年、明治37年))が起きました。


・ホームズを演じた役者たち(もっとも映画化された主人公)http://ysw.digi2.jp/holms/holms_v.htm

1・モーリスコステロ。アメリカ、「シャーロック・ホームズの冒険」(1905)最も古い。

2・クライブ・ブルック(イギリス出身)1932年 アメリカ
  トーキーで初めてホームズ役を演じた。瀕死の探偵、最後の挨拶。昭和5年日本公開

3・レジナルド・オーウェン(アメリカ出身)1933~1937年「恐怖の谷」シャーロック・ホームズの勝利

 

4・べイジル・ラスボーン1939-1946(イギリス出身)
  アメリカでは歴代のシャーロック・ホームズとしてベストと言われています。

 

5・ロナルド・ハワード(イギリス出身)1954~1955、シャーロック・ホームズテレビ39エピソード

6・ピーター・カッシング(イギリス出身)1959年、べイジル・ラスボーンに劣らず有名。

  バスカビル家の犬

7・ワシーリー・リヴァーノフロシア版ホームズテレビ放映用劇映画5本 (1979-86年)
 ・「シャーロック・ホームズとワトソン」1979~1986年全11話
   ロシア監督:イーゴリ・マスレンニコフ、ワシーリー・リヴァーノフ(ホームズ)大英帝国名誉勲章を受ける。
   ヴィターリー・ソローミン(ワトソン)

 

8・ロバートスティブンス(イギリス出身)

9・ニコールウイリアムソン(スッコトランド出身)

10・ロジャームーア
11・ジェレミー・ブレットとデビッド・バーク
  数多くの映画でホームズを演じたベイジル・ラスボーンをも凌ぐとされる。1939年~1946年にかけて全14作が制作された。 

 

12・クリストファー・リー
  兄のマイクロフト・ホームズとシャーロック・ホームズの兄弟双方を演じた史上唯一の俳優でもある。

  1962年恐怖の谷「シャーロック・ホームズと死の首飾り」

14・マイケルケイン
  「名探偵 シャーロック・ホームズ:最後の冒険」(1988)マイケルケイン出演

 

  チャールトン・ヘストン 四人の署名 1991年「血の十字架」

15・マットフリューワー(アメリカ出身)

16・リチャード・ロクスバーグ(オーストラリア出身)
  シャーロック・ホームズ 2002年 バスカヴィル家の獣犬に出演。

17・ルパート・エヴェレット「シャーロック・ホームズ:淑女殺人事件」(2004)

18・ロバート・ダウニー(アメリカ出身)&ジュード・ロウ
  ガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』(2009年)
 『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(2011年)でホームズを演じた

 

19・ベネディクト・カンバーバッチ2010年、BBC『SHERLOCK(シャーロック)』でシャーロック・ホームズを演じた。

  ワトソン:マーティン・フリーマン

20・ジョニー・リー・ミラー(イギリス出身))「エレメンタリー ホームズ & ワトソン in NY」

21・名探偵シャーロック・ホームズ 2013年全8話
  ロシア監督・脚本:アンドレイ・カヴン、イゴール・ペトレンコ(ホームズ)、アンドレイ・パニン(ワトソン)

 


(舞台)

 

◎ウィリアム・ジレット、1853年7月24日~1937年4月29日)は、アメリカの舞台俳優・演出家。シャーロック・ホームズを演じたことで知られ、インバネスマントや、キャバッシュ(ひょうたん型)ベント型のパイプなど、ドイルの原作にはないが、ひろく一般に浸透しているホームズのイメージは、多く彼の脚色によると言われています。
シャーロック・ホームズ~Sherlock Holmes(1899年)

アーサー・コナン・ドイルの脚本を、主演のウィリアム・ジレットが大幅に修正し完成させた。舞台化された中で、最も成功した作品。ホームズのトレードマークのひとつ、キャラバッシュ・パイプ(曲がったパイプ)は、ジレットがこの劇中で使用したことが始まりです。

・切り裂きジャック事件1888年8月31日から11月9日の約2ヶ月間にロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペルで少なくとも売春婦5人をバラバラにしたが、犯人は見つからず、サー・チャールズ・ウォーレンは辞任。

ホームズを扱ったパスティーシュ(作風や文体を似せて書いた作品)、パロディなど模倣した作品は数多く存在します。

ドイル死後、伝記作家のヘスキス・ピアソンがコナン・ドイル伝を書くため、ドイルの妻ジーン、次男デニス、三男エイドリアンなどの遺族はピアソンに未刊の原稿や書簡などの資料を自由に使わせた。ピアソンは生前のドイルを知っていました。

ジョン・ディクスン・カー(アメリカの推理作家)が「ドイル伝」を書いたのは、ドイルの三男エイドリアンとヘスキス・ピアソンの間にトラブルがあったと言われています。

エラリークイーンは1841~1941年、短編ミステリーのアンソロジーを編纂刊行「百年のエンターテイメント、世界探偵物語」の中に、エラリークイーンはその中にドイルの紹介コーナーで、ドイルの4作品の掲載したが、一作品の許可しか取ってなくて、ドイルの三番目の息子、エイドリアン(ドイル)に謝罪するも、エイドリアンは、エラリークイーンの1944年の「シャーロックホームズの災難」の絶版と回収をもとめた。

パスティーシュやパロディ
「シャーロックホームズの功績」エイドリアンとジョン・ディクスン・カーの合作、12編の短編よりなる。

「指名手配の男」コナン・ドイルの死後、遺品の中から原稿が発見され、当初は61番目のホームズものと信じられたが、後に建築家でアマチュア作家のアーサー・ホイティカーの原稿をドイルが買い取ったものと判明しました。

・山田風太郎の「眼中の悪魔」のなかの「黄色い下宿人」ロンドンには地下鉄が走っていると書かれています。蒸気機関車の地下鉄がすでにあったという。世界でもっとも古い鉄道はイギリスで走っていました。

「司祭館の殺人」
「眼中の悪魔」

・「QEDベイカー街の問題」高田崇史
1564~1616まで生きたシェークスピアを研究するため、漱石が倫敦に留学しました。シェークスピアの作品を1884年に坪内逍遥は翻訳しています。

・「我が輩は猫である殺人事件」奥泉泉 漱石の文体を模した、苦紗弥先生横死(おうし)をめぐる事件。

・島田荘司氏の「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」を読むと、懐かしい時代背景が良くわかる。
漱石の倫敦における小説なども、当時の倫敦を知る参考になる。

・「我輩はシャーロック・ホームズである」 柳広司 角川文庫
ナツメがホームズのような推理。

・シャロック・ホームズイレギュラーズ 森瀬繚・クロノスケープ編、日暮雅道監修この本は、過去のシャロックに関する資料がたくさん盛られています。

・日本版 「シャロック・ホームズの災難」 北原尚彦(パロディ作品集)
 「盗まれたカキエモンの謎」荒俣宏
大英博物館の考古学・民族学部長、そして後に博物館長となる英国学士会の長老オーラストン・フランクス卿のもとに、その奇妙な日本人青年、南方熊楠(26歳)が現れたのは、1893(明治26)年9月の事でした。フランクス卿はその汚いなりに顔をしかめたが、話を始めると、熊楠の異様な熱気を帯びた話しぶりに、ぐいぐい引き込まれていく思いで、時間がたつのを忘れてしまいました。ホームズが大英博物館で捜査します。


・ホームズ対フロイト キース・オートリー 小林司監修 東山あかね・熊谷彰 訳 光文社文庫

・「我輩は猫である殺人事件」奥泉光 新潮社

・他の推理作家
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日~1849年10月7日)は、アメリカ

 


アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ 1890年9月15日~1976年1月12日)

 

エルキュール・ポアロ、親友のアーサー・ヘイスティングズ(ワトソン役)、秘書のミス・レモン(ハドソン夫人)、ジャップ主任警部(レストレード警部)はシャーロックに似ています。

江戸川 乱歩 1894年(明治27年)10月21日~1965年(昭和40年)7月28日)

 


サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(Sir Alfred Joseph Hitchcock, 1899年8月13日~1980年4月29日)
サスペンス、スリラーで映画、テレビで活躍しました。

 


アメリカテレビの人気を博した「刑事コロンボ」の捜査方法は,犯行手段の「仮説」を立て,その仮説に基づき意識的に「証拠」を探し,わからない点は「実験」 して確かめるといった方法で証拠をつかむ。
コロンボは 細かなことが気になり徹底的に調べる姿勢は、日本のテレビの「相棒」にも通じます。質問が終わり、帰りかけの時、最後に一つ質問をいいですか?と尋ねる手法も似ています。

参考本
・シャーロック・ホームズ ーガス燈に浮かぶその生涯ーW・Sベアリング=グールド著、小林司、東山あかね訳 河出文庫 
・シャロック・ホームズはなぜ外見だけで人を見抜けるの 斉藤勇 宝島新書
・シャーロック・ホームズの愉しみ方 植村昌夫 平凡社
・裏読みシャロック・ホームズ ドイルの暗号 小林司 原書房
・シャーロック・ホームズ デイック・ライリ&ガム・マカリスター編 日暮雅道訳原書房
・シャロック・ホームズの推理博物館 小林司・東山あかね 河出出版
・名探偵ホームズとドイル ヴィクトリア時代の一つの人生、二つの履歴 河村幹夫 海竜社
・シャーロック・ホームズの謎 モリアーティ教授と空白の三年間 マイケル・ハードウィック 日暮雅道・北原尚彦 訳 原書房
・シャーロック・ホームズ大百科事典 ジャック・トレイシー 日暮雅道訳 河出書房新社
・シャーロック・ホームズの謎を解く 小林司、東山あかね 宝島文庫
・シャーロック・ホームズの放蕩三昧 水野雅士 青弓社
・シャーロック・ホームズの経済学 太田隆 青弓社
・シャーロック・ホームズの誤謬 「ヴスカヴィル家の犬」再考 ピエール・バイヤール 平岡敦 訳 東京創元社
・シャーロック・ホームズと99人の賢者 水野雅士 青弓社
・コナン・ドイル シャーロック・ホームズの代理人 ヘスキス・ピアソン 植村昌夫訳 平凡社
・名探偵 シャーロック・ホームズとドイル ヴィクトリア時代の一つの人生、二つの履歴書 河村幹夫 海竜社
・シャロック・ホームズの鉄道学 鉄道とともにイギリスに誕生した名探偵 松下了平 マイロケBooks
・シャーロキアン翻訳家 最初の挨拶 日暮雅道 原書房

ドイルの騎士道的精神としての、一兵卒として参戦、2つの冤罪を晴らす運動、妻ルイーズの結核闘病への献身など、情熱的で行動的。妖精写真を信じ込む純粋さ、何事にも最後までやり遂げる精神、心霊主義への傾倒その説明に、ドイルは1918年「新しい啓示」と題する本を出版して、無批判に受け入れたのではなく、色々と繰り返し確かめ、現在の科学で証明できない場合、何らかの理由を求めるとドイルの考えにたどり着いたと説明して、そのため心霊を信じるようになったと、読者に訴えた。更に、「生命の言葉」と題する書を刊行しました。1926年に「心霊主義の歴史」上下二巻を長年のドイルの研究結果の集大成を発表しました。更に講演旅行に出かけた。1925年、パリの「国際心霊主義会議」で議長を務めた。ドイルは勢力を傾けた心霊について、「今自分は何をなすべきかを考え行動している」と述べています。真摯で愚直な生き方を貫いていしました。妻ジーンと息子たちに見守られて1930年息を引き取ります。

墓標には、
はがねの如く真実で
刃の如く真っ直ぐな
アーサー・コナン・ドイル
ナイト、愛国者、医者、そうして文学者
と記されています。


    

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