2.星と嵐


 前、といえば風上のことだ。風の方向は変わらずいつも同じところから同じ強さで吹き続ける。だからこの世界に生きる彼らは風で方角を知り、エネルギーも風から受け取る。風のない柱の中に広がる街も存在しているが、こちらは日の光が届かないので、もっぱら工業用の土地だった。だが例外として、この柱を管理する「管理者」と呼ばれる者たち専用の階層が上層区の最下層にある。風洞街一番地。風上にある風上街1番地と高さを同じくし、人が住める最下層でもある。
 もしも下層区に足を延ばしたら、即座にもののけにつかまって上層区へ戻されるだろう。むろん、彼らにとっては迷い込んだ人間を送り届けているつもりなだけなのだが。
 そんな最低高度の街に一つの風車修理業者が存在する。
 名前をヘイズヘルヘブン。メルやリグが勤めるヘイズヘルヘブン22番地支店の本社、柱の上から下までどこにでも現れて風車を修理する創業三十年の少しは名の知れた修理屋である。そして社屋は、ほとんど人の住んでいない1番地の惨状に合わせた今にも朽ち果てそうなボロ屋だった。
 とはいえ、放棄された家と違い、一応ここに住んでいる者達がいる。だが彼らは人間ではなく、水棲族と妖精族だった。


 大仰に机に置かれた札には、「CEO:ヘイズ・カイズ」の文字。その机に足を投げ出してくつろいでいた水棲族の男は、突然鳴り響いた通話機のベルに椅子から転げ落ちた。
「どわああぁぁ」
 こちらからかけることはあっても、かかってくることのない通話機だった。かかってくることそのものに当然驚いたが、むしろそんな音がするのかと驚くような有様。
「ふぁ、ファル。とってくれ」
「んだよ〜。自分でやれよなぁ。妖精は非力なんだからさ」
「ほら、切れちゃうだろ!」
「手伸ばせよ……ったく」
 水棲族である彼の姿形は、自由自在だ。彼は気に入って人間の姿をとっているが当然それだって別に彼の本当の姿というわけではない。もののけも同じようなものだが、もののけのようにどうしても体に出てしまう個性のような物はなく、本当の意味で自由自在だ。
 物臭というか人間の姿に拘るヘイズを見下ろしながら上を通り過ぎていくのは、妖精のファル。小さく大人の拳二つぐらいしかない空飛ぶ一族だ。本来優秀な人間に憑き、熱量を貰う代わりにその身の回りの世話をするというある種の共生に近い生活をしている彼らだが、ファルは水棲族のヘイズに憑き、こうして身の回りの世話もせずにのんびり暮らしていた。もちろん彼女にとっても仕事は仕事、ヘイズの世話以外ならばしっかりとこなしている。
「はーい、こちらヘイズヘルヘブン本社。美人秘書のファルちゃんです〜」
 まったく先ほどと違う黄色い声色に、ヘイズは思わずため息。多分彼女は、自分ではなく社長秘書という肩書きに憑いているのだろうと、ヘイズは考える。耳長族ならまだしも、熱量の出づらい水棲族に憑く理由がほかには思い浮かばなかった。優男の面をした自分の顔を撫でながら、ヘイズは受話器を持ち上げる小さなその妖精を見上げていた。
「はいはーい。あ、リグちゃん。お久しぶり〜。面接以来だねぇ。元気してたぁ? どしたの?」
 どうやら入社希望の電話ではなかったらしい。
 ――さすがに、立て続けに二人も採る余裕はないしなぁ。
 面倒くさいことにならずに済んだと、のっそり立ち上がると彼は倒れた椅子を元に戻し、
「えええええええええええ!!」
 妖精の叫び声にもう一度椅子ごと倒れた。

 事務職の手が足りないヘイズヘルヘブンではCEOですら仕事をする必要がある。通話機越しに何度も頭を下げ、他の支店に指示を出し、ようやく息をついたのはそれなりに時間が経った後だった。ヘイズは受話器を置きながら、ため息を一つ。
「んじゃ、22番地行ってくるから。後は任せる」

「ちょっと、私も行くよ! メル倒れたんだよ!」
「いや水管使っていく。急ぎなんだ」
「げ、まじで……。んもー、わかったよ、あと下水管使ったら帰ってこなくていいから」
「分かってるって」
 人は、水なしでは生きられない。雲も水もない柱の上には、ヘイズヘルヘブンの本社があるような1番地などの低い階層の街から水を汲み上げている。もう人などほとんど住まず、水を汲み上げる集水装置と放置され腐った家ばかりが並ぶ街である。そんな街のいたる所から伸びる水管。
 その中は当然水で満たされている。水棲族は体が水であるため、その中を移動し本来ゴンドラで数時間かかる場所を数十分で移動することができるのだ。管理者や街の警備団に見つかればしこたま怒られるだろうし、ヘイズだったら業務停止処分を食らってもおかしくない行為だ。
 だがそんなことまったく気にせずヘイズは、散歩に行くようなノリで手を振り蛇口に消えた。

 誰もいなくなった本社の事務室でファルは一通り空中を巡った後、ヘイズが座っていた椅子に着地する。
「メルちゃん、大丈夫かなぁ。いきなり倒れたとか言ってたけど。そんなに最近休んでなかったけ……」
 目の前に履歴書が一枚置いてある。
「新人かぁ……」


 つぶやきは誰にも聞かれず、静かに部屋に沈んでいく。

 1番地から22番地まではすぐにゴンドラに乗れたとしても三時間はかかる。通話機越しに、「すぐ行くから」という社長の意味の分からない言に首を傾げながら、リグは会社の応接室にへたり込んでいた。
 目の前には、来客用のふかふかなソファとその上に寝かされているメル。この前柱の屋上に行ったときよりもさらに調子の悪そうな顔色だった。
「先輩ぃ〜」
 返事はない。苦しそうな息は浅く早く、なんとかしなければとリグはメルの着ているツナギに手を伸ばす。
 修理工の作業着であるツナギは歯車が多い場所での作業からか極力出っ張ったものがないつくりになっていた。だからチャックのヘッドは服の中に入る仕組みだ。
「よっ」
 したがって、襟首から手を入れてチャックを引っ張り出さないとツナギを緩めることができないのだ。
「むむっ……ん? 先輩? もしかして」
 手に当たる感触。それはインナーの感触などではなくて
「穿いていない。じゃない、つけていない……」
 勘違いかもしれないと手をもう一度突きこむが、指先に帰ってくる感触は素肌のそれだ。

「ノーブラ派だったとは……」
 今はそんなことを気にしている場合ではないと、リグは己を戒めると、またメルの襟に手を差し込んだ。
 ソファに寝かされ、苦しそうに息をするメルに、覆いかぶさり別の意味で息を上げたリグ。
「先輩、すぐに楽にしてあげますからね!」

 ヘイズヘルヘブンのCEOであるところのヘイズは、それなりに自分を動じない落ち着いている性格だと自己評価をしている。変わり者ばかりを会社に引き入れているためか、大抵のことでは動揺しない。たとえば、いきなり行方不明になった支店の所長のことも咎めもせず対応していたり、世界に名を轟かせる大企業のCEOの一人娘を雇っていたりと、大抵のことはもう経験してきていると思っていた。
 ――だが……これは一体どういうことだ!!
「先輩〜」
 その令嬢が、あろうことか支店の稼ぎ頭を押し倒している。いくら天下の大企業ベルフレア社現CEOの娘とはいえ、見過ごしていい状況なのかどうなのか、ヘイズは頭を抱えた。
 ――むしろこれはスキャンダルとして写真に……!
 いやまて落ち着け。自分で自分を諌め、物陰に隠れる。
 物陰の少し冷えた空気に当てられて、ようやく思考が落ち着いてきた。なんどもヘイズは深呼吸を繰り返す。
 しかし状況は変わらない。
 ――問題は……。
 応接室から続く風車修理用のガレージが半開きなことだ。通常は開いているが、閉店時間は閉まっている。今を開店時間と勘違いした客がもしガレージを覗き込みでもしたら。
 行くしかない。ヘイズの人生は決して短くはないが、それでも生まれてこの方初めての決断だった。
 ――どうにでもなれ!
「り、リグ君!」
 同時、ガレージのシャッターが開かれる音がした。
「! これはその! 少々取り込み中でして!! けしてそういうわけではなく!! あ、私この会社のCEOの――」
「やほ〜」
 ヘイズの必死のガードを無視して入ってきたのは、この支店の従業員であるユズだった。
「あ、ユズ先輩!」
「やぁやぁ、メルが倒れたって聞いてやってきましたよぉ。んふふ、なんか変なものでも食べたのかなぁ?」
 もののけのユズは、人間型の姿を好んでとってる。もののけ特有の、個々に現れる個性のような部分として生えている狐の耳と尻尾が、嬉しそうに揺れていた。
「おんや? 珍しい。しゃちょーじゃない」
「え? 社長?」
「……」

 感情はなにもかも行き場をなくした。やり場のない怒りに似た憤りをどこにも吐き出せず、ただ自分を覗き込む二人を見上げる。ヘイズはなぜ自分が愛想笑いをしているのかすら分からなくなり、情けなくて涙が出そうだった。出る訳がないが。

 倒れたメルを横に置きつつ、ヘイズたちはお茶をすすっていた。それなりに広い応接室だが、四人も集まると想像以上に窮屈な感じもする。天井から吊り下げられた照明が、メルを心配するかのように明滅していて、ようやくヘイズは自分がこの場所に来た理由を思い出した。
「水管なんか通ってきたんですか?」
「急ぎだからね、しょうがない」
 ソファの背もたれから覗き込んでいたユズが顔を上げる。
「しょうがないって……水棲族の人が蛇口から出てくるって考えてみなよぉ〜。嬉しいものじゃないよねぇ」
「う……」
 思わずリグは、手元のお茶を見る。
「だ、大丈夫だ、そういうところは問題ない。上水管は使ってないから。作業用の水管のほうだ。……っと、早くメルを起こさないとな」
 椅子からゆるりと立ち上がると、ヘイズはソファに寝かされているメルに近づいた。

02
「え、先輩そんな簡単によくなるんですか?」
「状況によっては。かな。メルの様子はどう? とくに苦しそうなだけ? 熱とかは?」
「そうですねずっと苦しそうにしていて……あ、あと」
「あと?」
「ノーブラでした」
 思わず視線を落とす。リグが必死で苦労して開けたツナギは今もまだ、だらしなく襟元からへそのあたりまで開いている。インナーをつけていないせいでメルはほとんど裸同然の格好でそこに寝かされていた。その隙間から覗く胸が薄く上下していて、
「いや決して、メルの胸が薄いなど!」
「社長?」
「浅くだ。そう、浅く」
 よくわからないとリグが首を傾げる。ソファの裏から覗いていたユズが、面白い見世物を見ているみたいに笑っていた。
 浅く上下している胸から、なんとか呼吸が止まっていないことを確認する。
「先輩大丈夫なんでしょうか?」
「ああ、ただの疲労だよ。所長不在で、仕事が大変だったんだな。熱もないし、問題はないだろ」
 言いながらヘイズは、メルの瞼を無理やり開かせた。こちらを向く瞳。弱いが、確かに意識があった。
 ――やっぱ意識はあるよなぁ……。だよなぁ……。

 後で殴られるぐらいは、仕方がないだろう。覚悟を決めるようにヘイズは大きく息を吐き出す。
「しゃちょー。生精なら私が渡すよぉ」
「いや、私がやる」
「ずるーい。メルにいつも苛められてたからってぇ〜」
 口を尖らせてユズが文句を言うが、ヘイズは取り合わない。
「もののけの手より、水棲族の手のほうが負担がないだろう? 私のほうが適任。合理的判断だよ」
「しょっけんらんよ〜だぁ。合理性とか今関係ないじゃん」
「メルもこのまま倒れているのは不本意だろう。声も出せないほど疲弊しているのだから、早く治してあげないとな」
「先輩、そんな疲れてたんですか……」
「彼女にとっては、この場所は息苦しいんだよ。昔から、ほんと高いところが好きでね。何とかと――」
 危うく失言しそうになって、彼は咳払いをしてごまかし、いそいそと、己の手の形状を液体のそれに変えた。
「しゃちょー、全部吸い込まれないようにねぇ」
「大丈夫、その前にメルが――」
 言いながら手をメルの口に容赦なく突き込んだ。
 _

 口の中に、違和感を覚えて反射で瞼が開く。視界が明るくなってメルはぼやけた意識がはっきりしていくのを感じた。
「んごっ!」


 意思ではなくて、すべて反射の動き。異物を吐き出そうと体中が勢いよく痙攣している。
「あ、先輩。気が付いたんですね!」
 最初から気が付いているメルだが、口に何かを突き込まれていて言葉が出ない。
「いや反射で動いてるだけだ。ふふふ、メル。早く起きないともっとすごいぞ」
 擦れ歪んだ視界の中、社長の手が口に突き込まれているのが見える。口の中で形を崩し液状化している彼の手は容赦なく喉の粘膜を犯してくる。
 胃液が這い上がってきそうだったが、入ってくるのは液体でしかなく、あと一歩反射だけではソレを排除できない。
「ごばっ!」
「ふふふ、メル! なんだか随分エロい表情だな!」
 思わず拳を振りぬいていた。
 寝転がっている体勢から考えれば、これ以上ないという美しい拳の軌跡だった。
 あくまで脊髄反射。反射であるから、コレは雇い主に対する暴力ではない。事故である。
 だから、思わずというのは、言葉のあやだ。
 スイッチが入ったかのように体が動くようにはなったけれど、マウントを取り返し社長の顔面に拳を入れているのは反射であってわざとではない。
 だから暴力などなかった。

 そこにあったのは、事故だ。至極不運な事故である。

「だからって、体の半分を吹き飛ばすのは、どうだろう?」
 少し向こう側が透けて見えるヘイズが、お茶を飲みながら吐き出す言葉は、随分と疲れていた。
 錬金術のエネルギーでもあるエリクシルのなかで、命の元と呼ばれる生精、それを直接受け渡すことで体調を回復させることはできる。だが当然渡したほうは体力を消耗するしロスもする。一時的に体力を受け渡しただけだ。体力を渡し、その上で半身吹き飛ばされたヘイズの疲弊たるや憔悴した老人のようだった。
「だから、ごめんってば」
 事務所のいつもメルが座っている場所に座るヘイズは、ため息混じりに周りを見渡す。
 ソファに寄りかかって未だ辛そうにしているメルと、それを何だか楽しそうに眺めているユズ。リグは、メルの前でじっと何か考えるように俯いていた。
「この前休みを取ったばかりだろう?」
 事務所の中をゆっくり歩きながら、ヘイズがメルに問いかけると、静かに彼女は視線だけで返事をする。
「まだ苦しいのか? いきなり何があったんだ」
「あの星が」

「星?」
 忌々しそうにつぶやいたメルの言葉に、ヘイズは首を傾げる。星という言葉にリグがびくりと震えた。
「いや、なんでもない。もう大丈夫」
「……先輩」
「いいよ、リグ。別にいいの、大丈夫だから」
 屋上から帰ってきて、リグとメルは二人であの本を読み直した。予想以上にしっかりと書かれていた数字。地上から約三万。果てしなく遠い。ただ、夜空に浮かぶ星よりは近いというだけの話。手を伸ばして届く距離なんかではない。
 今現在、この世界にその距離に到達できる乗り物なんて存在しなかった。浮球も、飛翔艇も、柱から離れられる距離など十キロもないのだ。
 ――でも、このままじゃ。
 このままではまた、メルは倒れてしまうのではないか。いきなり崩れ落ちるように倒れたメルを思い出して、思わず身震いしてしまう。このままではいけない。良い訳がなかった。
「あの、ちょっとまとめて有給取りたいんですけど」
 思わず、リグは立ち上がってそう口走っていた。
 メルを心配そうに見下ろしていたヘイズが振り返る。
「えと、ちょっと実家に。母に会ってこようかと……」
「……そうか、いいんじゃないか? いまは所長不在の支店だ、仕事を無理に増やせば負担が増えるだけだしな。構わないよ。いいだろう?」

「今ある仕事が落ち着く来月なら、いいけど……リグ?」
 自分のことは気にしなくてよい、そんなことを言いたいのだろう。眉尻が下がったメルの心配そうな顔にリグは苦笑。
「母に会いに行くだけですよ。来月ですね、分かりました」
「……ヘイズ、私にもお茶ちょうだい」
 手を伸ばしたメルに、ヘイズは空いている湯飲みを手渡す。
「ねぇねぇメイル〜」
「ん?」
 メルの肩越しに覗き込んできたユズが、メルと視線を合わせて、とてもいい笑顔をした。
「やっぱブラぐらい、つけたほうがいいと思うんだけど〜」
 ゆっくりと降りていく視線。へそより下まで開いたツナギは、これでもかと開かれていた。
「そうだな、いくら耳長族とはいえ、……垂れるぞ?」
「――!」

 その日、ヘイズヘルヘブン22番地支店に爆発音が轟いた。耳長族の容赦も遠慮もない音速に限りなく近い拳がヘイズの半身を水蒸気に変えていた。
 遠くから見ても分かるほど大量の水蒸気は、ガレージを通り抜け風に煽られて空に消えた。
 遠く空の真ん中で、太陽の光を反射する星が浮かんでいる。 







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