≫行間170%
≫行間200%
≫freefontsize

・テーマ「星」

 あの日、夜明けの海の中、彼は星を見た。

 満月が波に弾かれて崩れ、すぐに形を取り戻し風に揺れた。静かとはいえ、波が全くないわけではない。ヒナゲシは、ウェットスーツの上から自分の体を触る。
 手の平に返って来る感触はいつもどおり。ヒナゲシは逐一装備を確認していく。あの日、あの時から一度も確認と準備を怠るようなダイブはしてこなかった。
 既に彼女のCカード――スクーバダイビングのスキルレベルに応じて設定された、知識技術、経験などを示す指標になる技能講習の修了者へ発行される認定書――も既にアシスタントインストラクタのクラスまで取得している。あの日、ヒナゲシを引率してくれたクヌギが持っていたランクだ。あの日のヒナゲシは、まだ引率なしではもぐれないスクーバダイバーのクラスだった。
 胸に手を当てて深呼吸を一回。コンソールのLEDをつけてボンベの気圧を確認、あの日もっていかなかったオクトパスを確認し、頷く。
 ――オクトパスぐらい、別にいいでしょ。
 いまも彼女の胸のなかに刻み込まれている、その言葉がふと頭をよぎる。タンクからマスクなどへ接続し、呼吸できる圧力に下げるための装置。オクトパスと呼ばれるそのバイパスは、通常予備を一つもっていくことになっている。それを、彼女は拒んだ。
 思い出を振り払うようにヒナゲシは頭を一度ふり、空と海の境目をにらむ。静かな夜は、空の月と海の月に挟まれ風に揺れていた。
 あの日も、今日のように静かな海だった。
 目指す先は、水深三十メートル。見渡す限りに広がる珊瑚礁。


 珊瑚の産卵がある、そう聞いて南までやってきたのはよかったものの珊瑚の産卵はぴったり日付がわかるわけではないので、長い間ホテルどまりが続いていた。
「ねぇ、まだかなぁ」
 ヒナゲシの言葉に、クヌギはのんびりとした口調で、さてね、と答えるばかりだった。珊瑚の産卵はさっぱり起こらず、ヒナゲシは気がつけば近場でやっていた講習会でCカードを取得までしていた。
 とはいえ、まだスクーバダイバーの資格で、引率者が居なければもぐってはいけないのだけれど。
「今夜は、満月だしもしかしたら」
 新聞をひらきながら呟いたクヌギの言葉に、ヒナゲシは目を見開いて抱きつく。
「ホント?! 今日?」
 ヒナゲシのショートに切り込んだ髪の毛が鼻の頭を掠めていく。出そうになったくしゃみをクヌギは必死でこらえた。
「も、もしかしたらだってば」
 力いっぱい抱きつかれ、体制を崩したままクヌギは苦笑しながら言う。
「なによう。まだまたせるのー! 大体ホテルの宿泊代だって」
「判ってる、判ってるから、あっ、た、た」
 倒れる、そう言う前にクヌギの体は重力に負けて床に倒れこむ。
 けたたましい音をたてて、クヌギを下敷きに、ヒナゲシも倒れこんでいた。
「今日は結構、確率高いからさ」
「……うん」
 風は弱く、波も今日は出ていない。サーファーには悪いが、静かな海というのも、ソレはそれでいいものだ。
 ヒナゲシは、クヌギの胸に顔をうずめて目を閉じる。
 海の、潮の、匂いがした。


 産卵が始まった。その声でヒナゲシは跳ねるように起き上がり、そのまますぐに水着になるとホテルを飛び出す。
 先をクヌギが走っている。彼の肩に、装備が一式担がれていた。装備一式といえば、簡単に運べるような物ではないが、それをクヌギは易々と担ぎ砂浜を走っている。
 満月が二つ。空と、波を忘れた海の上に。
 風はなく、船に乗り込むと一層その静けさが耳についた。
 エンジンをかけると、静寂は一斉に身を潜め、ゆっくりと船は沖に向かって滑り出す。
 既に産卵は始まっているらしく、海面に珊瑚の卵がぽつりぽつりと見え隠れし始める。
 丸い、かわいらしい卵だ。月明かりで色を失っているが、キャニスターライトで照らしてやると、ピンク色が見え隠れする。思わず手を伸ばして卵をすくおうとするが上手く逃げられて手には残らない。
 残念そうに、しかし笑いながらヒナゲシが顔を上げるとそこに眉をひそめたクヌギが居た。
「もどろう。オクトパスの予備が無い。すまん、急いできたから」
「え……、予備だけでしょ? 大丈夫だよ、たった三十メートルじゃない」
 ここまできて、とヒナゲシは渋る。戻ってる間に産卵が終わってしまえば今まで待っていた苦労はどこにいってしまうのか。掴みかかるようにヒナゲシはクヌギに言う。
 ――オクトパスぐらい、別にいいでしょ。

 ウェットスーツは、体温を完全に守ってくれるわけではない。夏のこの時期だって、夜明け前ともなれば体はゆっくりと冷されていく。
 渋々ヒナゲシの押しにまけ、クヌギはダイブを慣行、追いかけるようにヒナゲシもソレに続いた。
 海の中は、声を上げそうになるほど美しい姿を二人の前に現す。
 ダイブしたときの荒れがなくなると、ゆっくりとその姿が見えてくる。下から湧き上がるように珊瑚の卵が上がってくるのだ。
 驚きに、ヒナゲシは力いっぱい空気を吐き出してしまう。
 ライトをもったクヌギが、下をさす。言葉は聞こえないが、言いたいことはわかりヒナゲシは頷いた。
 ゆっくりと海底へ向かう二人。己の呼吸以外、そこはあまりにも静かな場所だ。
 ――すごい。
 まるで雪の中を泳いでるような、そんな感覚になる。真っ暗な海の中は、既に海ですらなく、雪ふる夜空のようで、あまりにも幻想的だった。
 ――空を飛んでるみたいだ。
 珊瑚礁が見えてくる。傷つけないように近くの岩場へ移動。クヌギは先頭にたち、ヒナゲシを誘導していく。その姿は優雅で、無骨な顔のわりに気弱なクヌギにはみえなかった。
『カメラもってきてる?』
 ボードにかいた文字をキャニスターライトで照らしてクヌギが手を振る。ヒナゲシは、背につっていたカメラを取り出し、クヌギの傍に着地した。
 シャッターを切る。
 フラッシュが反応して、あたりが一面光に満たされた。
 思わず見開く。息が詰まるようなその光景は、間違いなくヒナゲシの胸の辺りをえぐっていた。透明度の高い水のなかを、ゆっくりと水面に上がっていく珊瑚の卵。下には、一面の珊瑚礁。ドコまでも広がるその珊瑚礁に、雪が降っていた。
 と、いきなり視界がぶれる。
 同時息がつまるのを感じ、視界が暗転しそうになった。思わず咳き込むが、空気がはいってこない。めまぐるしく回転する視界の隅に、ライトが見える。クヌギのもっていたライトだ。
 ライトの先、信じられない光景を見た。砂が舞い上がってる視界の向こう岩が崩れていた。
 その下で体半分だけが顔をだしてるクヌギ。フラッシュに驚き暴れる魚達が、ライトに照らされて踊ってるように見えた。
 ――クヌギ!
 息が出来ないことにきがつき、思わずオクトパスに手をかける。と、勢いで外れたのか、オクトパスは外れていた。息が出来ない、その事実に、いきなり息苦しさを感じる。オクトパスの予備を探すが、無いのは明白だった。自分でいらないといったのだから。
 急いでクヌギの傍に近づくが、クヌギは仰向けになったまま動かない。まだ、呼吸は続く。大丈夫だと、自分に言い聞かせ、何度もクヌギを叩いたが反応がなかった。
 思わず力強く揺らした瞬間。
 赤い。
 色が見えた。
 ウエットスーツを破り、クヌギの下半身を押しつぶしたその岩の隙間から赤い、何か、そう、理解してはいけない何かが、流れ出してくる。
 ヒナゲシは、クヌギを叩く。と、うっすらと彼は目を明けた。
 喜び彼女はクヌギをひっぱりだそうとする。が、クヌギは首をゆっくりと横に振る。
 震える手で、ボードに文字を書いていくクヌギ。
『上がれ。救助を呼んできてくれ』
 首をふり、ヒナゲシはクヌギの上に転がっている岩に手をかける。珊瑚礁の保存など、もう頭から消えうせていた。力いっぱい岩をおすと、ほんの少しだけ岩が動く。が、一気に酸素を消費したのか、息苦しくなってくるのを感じだ。涙がでそうになる。あと少しで岩を動かせるかもしれないのに、そうでなくてもクヌギにかかる重さを少しでも和らげることができるのに。
『上がれ』
 ボードの文字が揺れる。苦しい。酸素が欲しい。意志に反して体がゆっくと上昇を始める。
 雪降る海の中を、ヒナゲシは海面にむかって泳ぎ始めた。水の入ってこないはずのゴーグルの中、なぜか水がたまり始めていた。
 振り返る。珊瑚の卵が飛び交うなか、キャニスターライトに照らされたクヌギの姿が見える。


 思い出した昔のことに、ヒナゲシは目をつぶり心の中に押し込めるように大きく息を吸った。
 あの日、急いで救助隊をつれて戻ってきたときには、クヌギはもう冷たくなっていた。血に集るような魚はまだおらず、赤い色がもやのように周りに広がった海の底、静かに息を引きとっていた。彼はボードを抱え、仰向けになって目を開けたまま、珊瑚の卵に見送られていなくなってしまった。
 思わず拳を握りしめる。あのとき、オクトパスさえあれば。取りに戻っていれば。後悔は幾度となくしてきた。もう、前を向こうと決めてここにきたのだ。静かな夜。船のエンジンもとめ、もう波の小さな音しか聞こえない。
 あの日、クヌギはボードを抱えていた。最後に書かれた文字には、こう書いてあった。
『星空が綺麗だよ。ヒナゲシ』
 あの時海面から夜空は見上げることはできなかったはずだ。夜明けに近く水面は鏡のようになっていたはず。幻覚をみたのでは、救助隊の誰かが言ったがヒナゲシにはその言葉は納得できる力を持っていなかった。
 星空を、彼はどこでみたのか。この珊瑚礁の下に答えがあるはずだ。マスクを咥え、ゴーグルをつける。にらむように、愛する者の命を奪った海を見つめ、一気に彼女は飛び込んだ。
 目指すは、水深三十メートル。どこまでも広がる珊瑚礁。

 既に産卵は始まっている。あの日のように、雪が降り積もるような海の中を、今度は一人きりでもぐる。ミサイルのように海底へ突き進むその姿はあの日クヌギの後ろをついていく頼りない動きとは全くの別物だった。
 耳に届くのは、自分の呼吸と水の流れだけ。
 暗闇の海底をキャニスターライトで照らす。あの時と同じ場所。広がる珊瑚礁のなかにぽっつりと顔を出している岩山。あの日崩れた岩は、まだその場所に残っていた。
 ――クヌギ……。
 ゆっくりと岩場に足を着ける。ほとんど産卵は終わったのか、あたりは静かな海の中に戻りつつあった。魚たちも珊瑚の卵を腹いっぱいになるまでたべたのか、もう追うのをやめている。
 静かな海の中。ヒナゲシはゆっくりとカメラを構え、あの時と同じ方向にシャッターを切る。
 フラッシュで一気に広がる視界。キャニスターライトとは段違いのその光量に、息が詰まりそうになる。
 けれど、そこに星空はなかった。
 ――クヌギ。やっぱり、貴方は……。
 幻覚を見ていたのだろうか。うつむくと、あの日涙で滲んだ視界を思い出す。
 顔をあげると、遠くのほうがほのかに明るくなり始めていた。日の出が始まったのだろう。
 コンソールのLEDに火をともすと、長い間ココに立ち尽くしていたことに気がつく。
 大きく息をはいて、ヒナゲシは岩場をけり海面へ。顔を上げ、
 
 星空が広がっていた。

 息が詰まる。珊瑚の卵は海面に集まって、波に揺れていた。まるでそれは、天の川のように広がり流れ「空」を覆っていた。
 朝日のおぼろげな光を浴び海面に浮かんだ卵は、まるで星の輝きのように海面で揺らいでいる。それは、間違いなく星空だった。
 ――ああ。
 ヒナゲシは両手を挙げる。あの日、クヌギが見た空を見上げながら、海面へと。いや、空へと彼女は登っていく。


戻る