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・テーマ「我慢」

 これは、長編小説「桜は笑う」のサイドストーリーの位置づけです。
 俺は我慢していたことをやるぞJOJO-!


 安い木造アパートは、よく音が響く。特に部屋に音を出すものがあるわけでもないのに、カツヤは足音すら気にしてしまう。大学入学と同時、引っ越してきたボロアパートとの付き合いも一年になろうとしていた。使い慣れた台所で、野菜を切り刻む音。まな板と、小さな包丁が鳴らす一定のリズム。気を抜くと、その音に身を任せそうになってしまうので、カツヤは一回一回丁寧に包丁を降ろす。水色の柄の小さな包丁は、カツヤの思い通りにまな板に当たっては嬉しそうに謳っていた。
 もうすぐ、日も長くなる。暖かくなり始めた日の光が、埃を被った窓を貫いて部屋に差し込んでいた。薄汚れた畳と、小さなテーブル。暖かくなり始めた空気が、カツヤの頬をかすめた。
 くすぐったさに顔を上げた先に見えたのは、大学生が使うにはあまりにも小さい食器が一組、水きり台に綺麗に並んでいる姿。そして、男が使うにはちょっとかわいい食器だ。
 それをみて、カツヤは寂しそうに笑う。もうこの包丁と食器を、本当の持ち主が使うことは無い。あの時から、涙は一滴も出なくなった。
 もう、彼女は居ない。

 今日は、客人が来る。珍しく、懐かしい人からの連絡があったのだ。
「そろそろ、感傷に浸って泣いている頃かと思ってね」
 なんて、ひょうひょうと言ってのける変人。助けられた恩もあって、カツヤはいきなりの来訪を断ることも出来なかった。
 ふっと、ため息をついて彼は包丁を置く。たいした料理も出来ないが、それでも外食に誘えるほど甲斐性があるわけでもない。それを電話で伝えたら、手料理ほどのもてなしは無いだろう、と何とも古風な返事が返ってきた。
 本当に不思議な人だ、カツヤは苦笑交じりに料理を続ける。
 彼女を助けられなくて、全てを無くしてしまった自分を元気付けてくれた。いや、尻を蹴ったとでもいうのだろうか。まぁ、豪快な人に違いないが、本人に言うと骨が折れそうなので遠慮しておく。
 いったん材料を火にかけてる間に、カツヤは冷蔵庫を覗いた。殆ど空っぽの冷蔵庫に、顔をしかめ思案する。と、呼び鈴が鳴った。無骨な電子音にカツヤは現実に引き戻される。
「あ、はい」
 カツヤは手を拭きながら玄関を開けた。

 一瞬、鼻をついたのは、桜の匂い。
 
「ピケ!?」
 懐かしい匂いに、カツヤは居なくなったはずの名前を叫んでいた。そして、叫んだ後に気がついた。ピケはもう居ないのだ。ということは、
「久しぶりだな、カツヤ」
 笑いをかみ殺している顔が玄関の向こうにあった。恥ずかしさと、悔しさと、怒りと、やっぱり恥ずかしさ辺りが頭の中でぐちゃぐちゃに回転を始め、カツヤはその場に崩れ落ちる。
「くっ、いや失礼。はいっていいかな?」
 崩れ落ち涙を流すカツヤをまたいで、客人は部屋へと入ってくる。軽い音を立てて玄関が閉まった。
「笑いに来たんですか、ムイさん……」
 ムイと呼ばれた女性は、一度カツヤを振り返ると意地悪そうに口元を引き上げる。色の知れない髪の毛と、意志の強い眼。一度見れば絶対に忘れないと、誰もが自信を持って答えるようなそんな容姿の持ち主だ。カツヤの実家の有る田舎町で、バスの運転手をしている彼女がこうしてわざわざ都会のしかもボロアパートなんかにやって来るとは、カツヤも電話を受け取ったときには信じられなかった。
「まぁ、半分は笑いに来たのだけどね? ん、何かが焦げてないか?」
 その言葉に驚き、カツヤは涙を止め上半身を起こした。火をかけていた野菜が煙を上げている。白い煙を上げるフライパンにかけより、すぐさま火を止める。だが、煙の勢いは止まっていない、一体何が其処までといった具合に煙は上がりつづける。
「タイミングわるかったね」
「すみません。すぐ片付けるんで、そこらへんに座っててください」
 カツヤは、焦げ付いたフライパンからまだ焦げていないものをより分けはじめた。後ろで楽しそうにその背中を眺めるムイ。
 暫く、台所から流れる水や食器の音だけが響いていた。春先の日差しは、風が無ければ暖かい。ムイは、窓越しに街を眺めながら目を細めた。
「それにしても、連絡したのに間違えるとは。ねぇ?」
 ムイは、先ほど玄関を空けたときのカツヤの顔を思い出してはクスクスと笑う。
 その声を背中で聞きながら、カツヤは顔を真っ赤にしてため息をついた。
「違いますよ。匂いがしたんです。ピケの」
 ふて腐れたカツヤは、振り向かない。カツヤの言葉に、ムイは思い出したように手を打った。
「そうだった、何のためにきたんだ私は。これを君に」
 振り返ると、ムイの手には桜の枝が一つ。小さい桜の花をつけた枝だった。匂いがする、懐かしい匂いだ。ほんの数日一緒にいて、ずっと覚えているあいつの匂いがする。ヒサキは、振り返ったまま動きを止めていた。
「あの老木桜、今年も花をつけたんだ。君のところに連れて行けとうるさくてね。っと、折ったわけじゃないからな」
 ムイはまるで赤ん坊を布団の上に寝かせるように、枝を机の上に置いた。
「そう、あの桜だよ。それを見ていたら、目の前に落ちてきたんだ」
 苦笑するが、目は優しそうに細められ桜の枝を見ている。
「また、咲いたんですか。あの桜」
「ああ、去年より元気かもしれない」
 そうですか、とカツヤは軽く答えて作業に戻る。表情はムイのところからは見て取れないが、ムイにはカツヤが寂しそうな顔をしているのが手に取るように判った。
「我慢、しなくてもいいともうけどね?」
「な、にをですか?」
「夏も正月も家に帰ってないんだって?」
 カツヤは振り向かない。ムイも、窓の外を見ていた。老朽化が進んだアパートの窓枠が、定期的に金属質な音を立てている。
「忙しかったからですよ」
「そうかい、まぁ色々あるんだろうけど。でも、そんな包丁と食器とって置くぐらいなら、帰った方がいいとおもうけどね」
 カツヤの目の前には、水色の柄のついた少し小さな包丁が横になっている。
「わざわざ買い換える必要は」
 言いかけて、やはり言いよどみ、それでも出来上がった料理を皿にもってカツヤは振り向く。
「泣きそうな顔をするな。そら、枯れてしまうぞ」
 そういって、桜の枝を指す。それに気がつきカツヤは慌ててコップに水を入れて持ってくる。
「もう、一年か」
 ムイの言葉に、カツヤは体を強ばらせる。それを見て、またムイは小さく笑う。
「料理だめになっちゃったんで、外食にしませんか?」
「そうだね。桜の枝はここでお留守番か」
 ムイの言葉に、カツヤが苦笑した。机には、コップに刺さった桜の枝。花をつけ、日の光をうけ輝いていた。
 ムイが扉をくぐる。外はまだ明るく、暖かかった。靴に履き替えカツヤも続く。外に出た瞬間、桜の匂いがする。後ろ手に扉を閉めて、カツヤは心の中で呟いた。
「いってきます」
 部屋で光を受けた桜の枝が、コップの淵を伝って回る。
 まるで、笑っているように。


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