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・テーマ「指輪」

 凛と響く鈴の音が、朝靄の中に染みていく。それは曇った空に似合ってるくせに、やけに澄んだ音色で辺りに響いた。
 その音に耳を一瞬ひくつかせた黒猫は、尻尾に突いている指輪を一度揺らして寝床の屋根から立ち上がる。首輪はなく、代わりに尻尾に指輪とそれに連なる鈴を着けた彼女は、黒い体を屋根の下へと躍らせた。
 痩せこけたその体は野良であるともいえるが、その艶やかな毛並みが全てを否定している。そして、二本の尻尾。すでに彼女は猫ではない。とうの昔に猫をやめた猫。猫又。そして猫の神。
「おはようございます、猫神様」
 語りかけられた声に、彼女は耳も貸さず塀を歩き出した。辺りには誰もいないが、その声は彼女の耳元で聞こえる。物憂げに金色の目を細め、彼女は塀を歩き続けていた。
「共に歩くべき友なのだから、挨拶ぐらいはお互い忘れたくないものです」
 いやに芝居がかった声に、彼女は塀に座り込み顔を伏せる。同時、尻尾についていた指輪が、塀にあたり金属質の音を立てた。
「つつ、もう少し丁寧に扱ってくれると有りがたいんですがね」
 彼女の耳元で囁き続けるその声は、尻尾に着けられた指輪の声。
「いやなら置いていく」
 簡素な答えに、指輪は苦笑の笑い声を漏らした。そういえば、指輪をつけることになった時も、「かまわない」と一言つぶやいただけだったと、指輪は昔を思い出した。共に歩き始めてから何回雪に埋もれたかなんて、二人とも覚えてはいない。こんな押し問答の数も、二人には数え切れないほどの過去だった。
「猫神の言葉とは、思えませんね」
「神に在りようは無い」
 言葉から逃げるようにして、彼女は塀を飛び降りた。飛び降りた先は、いつもエサを貰う行きつけの庭。軒先には、すでに彼女のために用意された食事が置いてあった。朝靄に結露する皿には、夜に出されたのであろう少々湿気たドライフードが盛られている。
「神の供物にしては、少々品に欠けますね」
 指輪の言葉に、猫は尻尾を振った。土にぶつかった指輪が、鈴と一緒に曇った音を立てる。
「神に在りようは無いと言っている。そんなに神だ神だというのなら、貴様が言う神にふさわしい猫を見つけるがいい」
「え?」
 彼女は、尻尾を軒先にこすり付ける。指輪についていた鈴が軒先に引っかかり尻尾から外れる。乾いた音を立て、指輪が地面に落ちた。あっけなくはずされた指輪は、ただ物理法則にしたがって転がる。
「猫又にも飽きた」
 彼女は地面に落ち、静かに空を映しこむ指輪に呟く。かつて、自分の死を悟り恐怖に慄いた猫の姿はそこには無かった。指輪の知っている、老いた姿に打ち震える猫の姿はそこには無く、目の前には悠然とした黒猫の姿が一つ。
 無限の時間と引き換えに、神になることを唆した指輪は、その姿を映し無言。
 朝靄に濡れたエサは、雨の匂いを混ぜていた。

 梅雨時とはいえ、空には青空が広がっている。一本になった尻尾に、彼女は少々の不安を覚えつつも屋根の上で体を丸めていた。
 時たまピクリと、耳や尻尾を動かすのは夢を見ているからだ。湿った風に、黒い毛波を揺らしながら、彼女は昔の夢を見る。
「もう、あなたもお婆ちゃんになっちゃったね」
 人間の言葉は、よくわからない。けれど、その言葉尻に寂しそうな感情と、優しそうな雰囲気が混ざっているのは彼女にもわかった。
 そして、自分が老いていることに恐怖を覚えた。ツヤの無くなった毛並と、思ったとおりに動かない体が恨めしく、目の前の人間に彼女は力なく一声。
 人間にしては小さくて、やわらかいその手に体をなでられながら、見上げた青空は目が回りそうなほど大きかった。できれば共に歩みたい、彼女には自分が必要なのだ、猫は飼い主の匂いをかぎながら思う。
 歩くことすら億劫になり始めた頃、彼女は逃げ出すように家を飛び出した。
「クロクロ? おかしいな……おーい、クロクロ〜」
 自分を探す声を背中で聞きながら、彼女はゆっくりと塀を歩き出す。
 そして、ビクリと体が振るえ彼女は目を覚ました。
「夢、か」
 気がつけばすでに夜、夜空にぽつぽつと浮かぶ雲が風に揺れている。

 行きつけの庭には、いつもどおり食べ物が置いてあった。白い皿に乗っているのは、いつもどおりのドライフード。彼女はそれを認めたあと、視線をめぐらせる。
 朝落としたはずの指輪はそこには無かった。彼女はそれを少し寂しく思う。新しい猫を見つけたのか、それともカラスにでももっていかれたのだろうか、首をひねるが、彼女の問いに答えるものはいない。
「あらあら、猫ちゃん。こんばんわ」
 声に見上げると、家の主である老人が彼女を見下ろしていた。いつもどおり、双方とも慣れているのか無言の会話。
「あら、病気でもした? 毛がぼさぼさよ」
 なでられるが、彼女は皿に乗っているエサに目もくれず、せわしなく辺りを見回していた。
 しばらく彼女をなでていた老婆は、思いついたように懐に手をいれ何かを取り出す。乾いた金属音が一つ転がる。
「ほら、落し物よ」
 差し出されたのは、指輪。
 そして、尻尾に指輪が戻される。人には見えない尻尾が生えていく瞬間に、彼女は体を振るわせた。初めて神になることを望んだ、あのときの瞬間を彼女は思い出した。
 戻ってくるバランスに、彼女は体を一振りする。
「お久しぶりですね、猫神」
「ふん」
 相変わらずの言に、指輪は苦笑すした。
「さ、クロクロ。ちゃんとご飯食べないとだめよ」
 懐かしい名前に、彼女は顔を上げた。すでにその名前は死んだはずなのに、神になったときにつながりは捨てたというのに。その手はいく千の皺に覆われ、あのときの手とは大違いだったが、彼女にはその手はあの日あの時なでられた、小さくそしてやわらかい手と同じに思えた。
 目をふせ、彼女は一度返事をするように短く鳴く。ドライフードは、懐かしい昔と変わらない味がした。

 結局のところ、今までどおりの尻尾になった彼女は、屋根の上で夜空を見上げている。
 はたりと動かした尻尾のさきで、指輪が月光を受けて輝いた。
「また外しますか?」
 指輪の言葉には答えず、猫は屋根の上で丸くなった。もぞりと、体を揺らし深く息を吐く。
「おやすみなさい、猫神様」
「おやすみ」
 猫の言葉に、指輪は驚き「おやおや」と茶化すように呟いた。
 丸まったまま目を開けずに、彼女は答える。
「神に在りようはない」
「ずいぶんとわがままな神様ですね」
「猫は、勝手気ままなもんだ」
 夜空は静かに風を吹かせている。どこにも行かない猫は、ただいつものように屋根の上でうずくまり、寝息を立て始めた。


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