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・テーマ「失う」

 そうそう、この匂いは何だっけ。
 ゆっくりと意識が浮き上がる感触。ぽかぽかのお日様に当たりながら、私はゆっくりと目を覚ました。閉じた瞼の向こうが明るい。引くつかせた鼻に、御主人の匂いがした。
 目を開けると、目の前に御主人の顔があった。私が寝てるのを見つけて、わざわざ近くで寝に来たんだろうか。寝ぼけた頭で考えながら、私は瞬きを数回。
 御主人はいつもこの場所で寝ている。だから私も御主人を真似して、この場所で寝る事が多い。冬の間は遠慮したいけど。
 体を起こして、伸びをする。御主人に体が当たらないように気をつけながら、ぐいっと体を弓なりにする。
「くぁ」
 あくびが一緒に出た。顔をこすって最後のエンジンをかける。うん、目はさめてきた。
 庭に飛び出ると体中に風が当たった。春のにおいをつれた、桜色の風はどこまでも優しくゆっくり流れていく。その中に、少しだけ湿気たにおいを私は感じた。雨でもくるのだろうか。でも、そういう匂いでもない。不思議に思って、空を見上げたらゆらゆらと揺れる灰色の何かを見つけた。
 灰色の何かは、雲っぽいのに低い場所に浮かんでいた。ただゆらゆらと、浮かんでるだけではなくて風に流されていた。
 ゆっくりと、風と一緒に流されていく灰色のふわふわ。
 私の頭の上を通って、風に乗って流れていく。気がつけば、私はそれを追いかけて歩き出していた。鼻を引くつかせれば、やはりあの湿気た匂いがする。何の匂いかわからないけれど、あのふわふわの匂いなんだと思う。
 どこかで嗅いだ記憶があるんだけど……。
 とことこと気がつけば私は庭をでて、道を歩いていた。横を子供達が走り抜けるけど、空を飛んでる灰色のふわふわには気がつかなかった。楽しそうな笑い声と一緒に、子供達は走り去っていく。そんなに走ったら、危ないぞと思ったけどもう遠くへ行ってしまった。
 ふわふわと、灰色のなにかは風に乗って飛んでいる。一度、ジャンプしてみたけれど届かなかった。屋根よりは高いけど、雲よりは低い。
 見上げながら歩いていたので、三回ぐらい私は電柱にぶつかった。ぶつかるたびに、むぎゅっと声を上げてしまう。見上げてるから、おでこじゃなくて顎に電柱が当たって痛い。
 一度あまりの痛さに座り込んでしまった。
 ふてくされて、このまま道路で寝てやろうかと思ったところで、車がとおって目がさめた。
 車がつれてくる風も、春の匂いがするなぁなんて、のんきなことを考えていたら、また後ろから車がきて轢かれそうになった。
 気をつけないと。自分に言い聞かせながら、私はとことこと歩く。
 風に煽られても、灰色のふわふわは形を殆ど変えないまま、流されてゆく。アレはどこまで行くんだろうか、頭の隅っこで考えながら追いかけていると、一際強い風が吹いた。
 その瞬間、灰色のふわふわが高度を落としていく。住宅街は見晴らしが悪い、すぐにふわふわは木と屋根に隠れて見えなくなった。
 急いで消えた曲がり角に向かう。走リ出した体に、風が強めに当たリはじめた。桜の匂いをつれた風を全身に受けながら、私は走る。
 塀の切れ目がだんだんと近付いてきた。そのまま走り抜けて一気に、曲がり角へ、飛び出す。
 驚くほどに開けた視界のなかで、桜が揺れていた。
 見上げた桜は、とても大きく私は目を丸くしてそれを見上げている。ザッと風が吹くと桜の花びらが散った。
 そういえば、あの灰色のふわふわはどこにいったのかと、あたりを見回す。
 そして見つけた。「なるほどなるほど」私は頷く。
 桜の花が半分で綺麗に葉桜になっていた。
 そういうことか。鼻を引くつかせれば、あの灰色の匂い。湿気たあの匂いがした。
 そうだ、この匂いは梅雨が来る臭いだったのだ。あの、雨の臭いだ。
 春は色を失って、すぐに梅雨がやってくる。通りを見上げたら、葉桜の緑色が青々と広がっていた。
 ふっと我に返る。ここはどこだろうか? 振り返っても知らない場所、きょろきょろとしてみるものの、見たことのない場所だった。
 立て並ぶ建物が、まるで異形の建造物のように見える。じわじわと、恐怖が染み込んでくる感覚、私はせわしなく視線を彷徨わせる。
 風が吹いている、梅雨と春の間の不思議な匂い。そこに、嗅ぎなれた匂いがした。
 御主人の匂いだ! 思ったときには、その匂いを追いかけるように私は走り出していた。
 視界の端に御主人の姿を見つけた。御主人も私を見つけたのか、足早に近付いてくる。
「わ〜御主人」
「にゃ」
 御主人が返事をするように一声。飛び込んできた御主人を抱き上げる。一瞬私を見たあと、すぐにスンスンと鼻を鳴らして歩いて来た方向を向いた。
 家は向こうだ。そういっているのだろう。見失った道も、御主人なら教えてくれる。
「ありがと」
 ほお擦りすると、御主人が邪魔そうにはたりと尻尾を揺らした。

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