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・テーマ「戦い」

 風が余所余所しく吹いた。巨大な木の壁に体を預けながら、吉見タツはその風を受けている。草木の青い匂いがする、それは紛れも無い季節の変わり目の匂い。春の匂いだ。昼の日中だというのに、日が差さないこの場所で、タツは静かに木の壁に背を預け、息を整えている。
 静かだった。自分の呼吸以外に物音はしない。遠く、タイヤが地面を抉る音がかすかに風に乗ってやってきた。耳から得れる情報は無いとばかりに、聴覚への集中を止める。一息。
 風に体が撫でられるのを感じながら、タツは所在なさげに視線を彷徨わせる。聴覚への集中を止めたおかげで、自分の呼吸が気にならなくなった。それは良いが、少しだけ不安が残る。音の代わりとばかりに、タツは目を落ち着きなく彷徨よわせ鼻を何度も引くつかせていた。
 アイツをいま逃してしまえば、チャンスは二度と巡ってこないかもしれない。タツは考える、アイツなら何処に隠れるだろうか? アイツなら何処から逃げ出すだろうか? アイツなら……。
 また風が吹いた。日なたに出てのんびりと風に吹かれていれば、最高の一日になるだろう。そんな予感をさせる心地のいい風。タツは風の中にアイツの痕跡がないかと、鼻を引くつかせる。
 一瞬、主人の事が脳裏によぎる。アイツに恨みはないが、主人が嫌っている。それだけで、タツは全力を出すだけの理由になる。もう一度、鼻を引くつかせる。いた、アイツの匂いだ。間違いない、この脂ぎった匂い。黒々しくやたらと心を掻き乱す匂い。知らずとタツの口元が歪んでいく。
 風上に視線を巡らすと、確かにアイツの匂いがする。タツは、音を立てないように壁からはなれる。入り組んだ場所のため、視界は役に立たない。ただ、間違いなく風上にヤツがいる。一度確かめるように彼は頷き、また足を進める。興奮と緊張の入り混じった鼓動が体に響く。心臓がアドレナリンだけを送っているのでは、と思うぐらいの高揚感。体に流れる血液はすでに蒸発したんじゃないだろうか。
 灰色と茶色が支配するこの場所で、タツは静かに風下を選んで移動する。
 風が吹いた。今度は少し強い風だ。タツは顔をあげ、力いっぱい風を吸い込む。匂いを探す。先ほどより近い。緊張が胸を締め付ける、呼吸する方が苦しいかもしれない。
 主人の宿敵をこの手でしとめることができる。それが狩人たるタツの最高の喜びだ。アイツに恨みはないが、頭から足の先まで喰らい尽くしてやると、タツは意気込み体に力を入れた。
 アイツに戦闘力はない、いつも逃げるだけしか脳がないヤツだ。けれど逃がせば、次に出会うチャンスはいつになるか判らない。逃がしてしまえば、主に顔向けできなくなる。だから。
 今。
 ここで。
 殺す。

 タツは、匂いの出元にあたりをつけ、小走りに近付く。自分は狩人だ、簡単に気付かれはしない。軽い足取りとは裏腹に、タツの表情は緊張と殺意に支配されている。あの曲がり角の先、風はそこから吹いている。
 角につくなり、背を壁につける。体を低くして、タツは奥を見ようとした。
 匂いは強くなっている。だが、耳をすませても音はしない。多分、向こうも気がついているのだ、タツは心の中で舌打ちを一つ、体の力を抜く。
 風は強く、匂いは何処にでも混ざってしまった。この先に居るのには違いないが、正確な場所まではわからない。
 と、視界に黒い影が入った。
 間違いない、アイツだ。タツは顔を上げ、その黒い影を追う。見つけたとばかりに、口元が笑みになっていくのを自覚する。
 タツが背中を預けているすぐ近く、黒い影は隅でうずくまっていた。身じろぎ一つしないまま、まるで黒い塊のように己の体を床と壁の隙間に押し付けている。
『隠れているつもりか』
 タツは息を整え、出していた頭を引っ込める。静かだ。飛び出しそうな心臓を押さえ込むように、彼は大きく深呼吸をした。
 もうすぐ、主人の宿敵をこの手で喰らい尽くすことができる。もうすぐ、この手でヤツの体を切り刻むことができる。そう考えると、まるで嘘のように緊張が流れ去っていく。かわりに滲み出したのは、興奮。恍惚。歓喜。凶悪な笑みがタツの顔に浮かんだ。
 もう耐えられない。タツは、体を隠していた壁から飛び出す。
 床を蹴り出した瞬間、時間が粘性を帯びる。
 一歩。
 風をきる音が、耳に入る。髭を撫でる風が、自分の速度を教える。
 一歩。
 呼吸はしていない。振り上げた手の平を、風が捕まえようと喘ぐ。無視。風の壁を切り裂くように、無理やり手を突き出した。タツが持っている唯一の武器が、光を反射し鈍く輝く。
 一歩。
 届く。
 手を振り下ろす。円弧の軌跡は必ず当たるし必ず殺す、という物理法則にのっとってるかの如く一片のためらいもなしに黒い塊に振り下ろされた。
 指の先までめり込む感触。すぐさま慣性が手を軋ませ始めた。黒い塊の背から首を突き抜け地面に到達しているタツの凶器。それを支点に、タツは体を振り回し勢いを殺した。慣性が腕から肩、背を通って振り上げた足へと抜ける。難なく着地。
 タツは黒い塊を見下ろす。そいつは生きていた。背から突きこまれた凶器に体の自由はきいていないが、そいつは体を動かしたのだ。かすかな動きだが、確かにタツの手へとその振動が伝わる。
 即死ではなかった。
 そして、タツはそれすら予測していたように平然と話し掛ける。
「よう、気分はどうだい?」
 タツの声に、黒い塊が震える。だが、動けない。
「私ヲ喰ラウカ、飼ワレタ狩人」
 黒い塊が言う。体液の匂いが、タツの鼻に届いた。全く感情の感じさせない言葉に、タツは突き刺していた凶器をねじ込む。黒い塊がうめいた。
「安心しろ、俺は主人のためにしか喰わない」
「ソウカ」
 乾いた春の風が二人の間に吹いた。タツが口を大きく開く。
「では、死ね」
 ねらいは目の前で横たわる黒い塊の頭。一瞬のためらいも無く、一片のちゅうちょも無く、タツの口が黒い塊に向かって吸い込まれていく。
「アバヨ」
 びちりと、嫌な音と共に声が途切れた。
 
「タツ」
 主人の声に、タツが振り返る。タツの口には黒い塊が咥えられている。
「やだもぅ、またゴキブリ食べてるのね!」
 主人がタツの首根っこをつかみ、引っ張りあげる。
「ニャ……」
 タツがうめいた。
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