端境期に生きる |
||
ほんの数年前までは、絶対予想できなかったことに、携帯電話の普及がある。。。 今、電車に乗ると、とたんにほとんどの人が、申し合わせたかのように 一斉に携帯電話を開いてメールを見たり、ゲームをしたりしてい る。 という自分もそうなのだけれど・・・。 先日、吉祥寺の駅の前で誰かが携帯を上にかざしていた。ふと見ると夕日がとてもきれいに輝いていた。 それを見た人が、一人、ま た一人と、携帯で夕陽を撮り始めた。 いつの間にか皆が携帯電話を同じ方向へ向けている姿・・・。 お風呂屋さんへ入ったら、「携帯電話の電源をお切りください」と書いてあった。 お風呂で携帯の電源???と思ったら、こっそり盗撮 することだってできるんだって気づいた。 私は今、携帯に1ギガのメディアを入れてそれにAACにエンコードした音楽を聴いている。 そうして、そのまま、それをかざして電車や バスに乗り、買い物もしている。 (いわゆるミュージック携帯&お財布携帯&モバイルスイカ) そうしてネットにもアクセスしてページをメモ代わりに持ち歩いたり、 GPS機能で、今自分がどこにいるかを知ったりと、フルに活用して いる。 この間はロンドンやパリから普通にメールしてみんなから普通に返事が戻ってきた。 こんなことを10年前にいったい誰が想像できただろうか? 子供のころに読んだSF小説や、SFコミックにもこんなことなぁ〜んにも載っていなかった。 事実は小説より奇なり(ってこんな時に使わないかもしれないけれど・・・) でもでも、私は、こんな感じの社会になるって、本当に予測しなかったし、みんな予測していなかったと思う。 自分がいま生きていて、なんだかとっても大きなはざまにいるって気がする時がある。 今、水洗トイレや、自宅にお風呂があることや、ガスや電気を燃料にしていることや、 水道から水がでてくることがきっと当然だとみん な思って生きていると思うけれど、 私の子供のころは、ちょうど端境期だったんだと思う。 自動車を持っている家やクーラーのある家がちょっと特別で、テレビは白黒が当たり前、一家に一台皆で見てた。 ガスも引いていたけ れど、かまどでご飯をマキで焚いていたことや、 お風呂をマキで沸かしていたことをおぼろげながら覚えてる。 トイレが水洗になった時はちょっと感激した。 電話は、とても特別なもので、電話室のあるおうちもあった。 洗濯機が家に来たのは覚えていないけれど、ローラーで搾るその洗濯機の搾り機が脱水式になって、 母がとても喜んでいたのを覚え ている。 でも、たらいで、お風呂場で手洗いで洗濯もよくやっていた。 実際、今でも手でしっかり洗う方がきれいに汚れが落ちるような気がする 。 赤ちゃんが生まれたら、当然のように自分で縫ったおむつを使い、二人分のおむつがヒラヒラと青い空に風に吹かれていた。 三人目の時は世の中は紙おむつの時代で、「楽だな、でも、ゴミが増えるんだな」ってちょっぴり胸が痛んだ。 私は、手動と、自動の端境期にちょうどいて、その両方を実際に見ることができたって、そんな風に思う。 なんでも、あんまり自動になっちゃったら、 その奥の奥でいったい「どうして?」とか、「原点」とかが見えなくなって、 それはとってもつまらないことのような気がするから、ちょっとそれは心の中だけで得したような気になってる。 2007年5月 |
||